小説「キショい人達の書いたものを眺める自分に憂鬱な毎日のキショートストーリー」
4月1日の今日、私はnoteの創作作品を見た。思う。
「きしょ😰」
自我が剥き出しの果てしない非生産的な、作品とも言えない駄作の胎児どもに対面を繰り返した。浮かんだ言葉は
「きしょ😰」
ゴッホは歪な世界観を絵画にし、生前評価されなかった。この人達は大したことのない自己の世界観をわざわざ作品にし自己紹介をする。
「私はしょぼい雑魚です」
実に、形容し難い気持ちの悪い、薄気味の悪さが漂う今日この頃。詩は美しいから評価されるのか、美しい詩だから評価されるのか。その答えは、小林秀雄やチェスタートンに問うまでもなく即答される。
「否」
評価されたから評価された詩なのだ。すなわち、キショい作品などゴミにも劣る。
「困った」
そう呟く我輩。なにに困ったのか、そのことにすらわからない。題材がしょぼすぎるからだ。もちっとマシな作品でも見てれば語るべき言葉など、泉の如き溢れ方をしようものなのに、完全に言葉の鳥取砂丘である。ゴビ砂漠でもいい。というか、ゴミだ。
「そもそもが表現するに値する自我ではない」
エリクチュールとパロールが反転する際が今だ。
「エリクチュールとは書き言葉で、パロールは話し言葉である。ジャックデリダが用いた用語で、フランス分析哲学を持ち出せばどんな駄文も多少は高尚になろうものである」
とパロールでエリクチュールってみた。言語の境界線など、そもが怪しいものだ。ならば、故に、然るべく展開としてヴィトゲンシュタインの言を実践してみよう。
「語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ」
もはや語ることすらできなくなった現状、いかにして小説をことはげば良いのだろうか。と言う悩みをここに、これを見てくれた皆と共有したい。
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