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連続な自分と離散的に映る他人


「人生は自分が主人公の物語」

そんな言葉をよく聞いて育った中で,

最近では「人生は物語ではない」という教えを知り,

目が覚めたような感覚を味わった.

それはなぜなのかはおそらく難しいが,わかったことがある.


僕らの知る「物語」は断片的に過ぎない.

映画であり,ドラマであり,アニメであり,漫画であり,

すべては断片的な場面を離散的につなげた物語である.

言われてみれば,子どもの頃から,ドラマや映画を見ては,

「不自然」に気がついていた.

この登場人物は,食器に盛ってある食事を全部食べたのだろうか?また,どんな気持ちで食べたのだろうか?残した場合は,捨てたのか?保存したのか?

さっきの場面では絶対に手がひどく汚れていたと思うのだが,今はパンを持って食事をしている.手は洗ったのか?どこで洗ったのか?

そもそもこのカメラは誰の目線なのだろうか?

など,あげだしたらきりがない.


これらからわかることは,物語は断片的であることだ.

それと比べると自分はどうか.

自分とは,寝ているとき以外は意識という連続的な存在である.

常に意識はつながっていて,多くのことを考えている.そして,意識の切り替えを幾度となくするだろう.

上司がムカつくと思っていたら,気がつけばケーキが美味しいと思っている.

この意識は連続であり,自分には嫌いな人や苦手なことがあるが,それと同時に,好きな人や得意なことがあることを表している.どれも全部自分であることを自分は知っている.


では他人はどうだろうか.

自分から見る他人のことだ.

他人を連続的に見ることは不可能だ.

他人の意識には入れないからだ.

せいぜい24時間密着するのが限界だろう.

それでも自分には他人が断片的に映るだろう.

他人とは,自分にとっては断片的なのことを知ろう.

怒っている姿や笑っている姿.

楽しいときのインスタグラムの他人の投稿.

嫌なことがあったときのTwitterの他人の投稿.

たまたまトイレで出会ったときの他人の疲れた姿.

すべてがその場面を切り取っただけであり,断片的である.

この断片的というのは離散的であると言い換えることができる.


それなのに,僕たちは他人も自分と同じ連続であると思ってしまう.

離散的である他人のインスタグラムの投稿をすべてつなげて物語をつくる.

この人はさぞかし美しい人生を送っているのに,自分はなんてみすぼらしい人生なんだろうと思ってしまう.

この時点で二重の誤ちを犯していることに気が付かずに,自分の人生を蔑み棒に振る.

自分にとっての他人は連続的ではないし,連続的なものは物語ではない.


インターネットに包まれたこの地球は,そんな世界だ.

離散的な他人を過度に見る環境.

他人の人生は自分にとっては離散で,他人にとっては連続.

これに気が付けずに,連続な自分と離散な他人を比較する.

連続であるものと離散であるものを比較はできない.

連続に対して,離散は断片的で,その狭間には未知の空白があるからだ.

自然数と正の数を比較するようなもの.

正の数なくして,世界は存在しないことに気が付かない.


だとすれば,自分の人生とはどんな物語なのだろうか.

ここで最初の言葉に戻る.

「人生は物語ではない」

人生の一部を断片的に切り取って物語にすることはできるだろう.

このような物語を創作することは僕はすごく楽しいことだと思う.

しかし,人生そのものが物語でないことに注意しなければならない.

つまり,自分を離散的に考えることもできないのだ.

人生を物語にしてしまうと,その断片の間にある未知の空白に対処できない.

物語で言うと次のシーンに進めなくなってしまう.

未知の空白は,自分を成長させる薬のようなもの.

これがなければ成長しない.

僕たちは,生まれながらに能力を持った物語の主人公ではない.

体は伸びないし,お腹の中に九尾なんていない.

そして,誰もあなたのことはずっと見ていないし,カメラも回っていない.

連続な人生の中で,孤独で地道に成長するただの人間だ.

その成長を物語にすることは容易いが,

物語のように成長することはできない.


自分は連続な存在であり,他人は離散的に映る.


このことは覚えておこう.


あなたの人生は物語ですか?

そして,あなたの人生は物語にすることはできますか?

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