排除

 少し前にTwitterでYouTube内でセクハラ発言をしたと高齢の男性芸能人が叩かれていた。見なければ良いものの、何故叩かれているのか気になってしまう。自分でも人間に備わっている嫌な部分だと思う。何故叩かれたのかの理由を知り嫌な気分になり、それを叩いてるつぶやきを見て嫌な気分になる。

 叩かれてる理由は、YouTube内で別の高齢の男性芸人が歳をとってもまだまだ元気という話の流れで、「まだakbの1人や2人は妊娠させれるよ」と発言したのが原因だ。本人にとっては軽い冗談なのだろう。YouTube内の話し相手もおそらくスタッフと思われる人も笑っていた。発言自体は僕は面白さは分からないし、80のおじさんが言ってるのは気持ち悪いと思った。でもその場にいた同世代の人が笑っているならこの人達にとっては普通なのかも知れない。擁護したいなんて傲慢な訳ではなく、ただ自分が歳を取るのが恐ろしく感じた。時代の変化とともに考えをアップデートできてなくて叩かれている。それまでに頑張って働いて生きても、老害と貶される。本当に叩く必要があるのか。今回の場合叩いていいのは、akbの人、妊娠で嫌な経験をした人、そしてその周りの人ぐらいじゃないかと思ってしまう。叩いてる人の中にはいつも正義を盾にして殴っている人がいる。盾は殴るものではなく守るものだ。

 多様性という正義の概念が浸透してきてる。間違いなんて微塵も思わないけれど、多様性と謳いながら、多様性に反するものは排除する。凄く違和感を感じる。多様性って排除していいのだろうか。自分は正直多様性が何かは理解しきれてない部分もあると思う。まだ多様性を世の中で作り上げてる途中だと思うし。僕が現在思う多様性とは、若林さんが何かで「多様性って普通を無くすこと」って言ってたのが凄くしっくりきた。マイノリティを受け入れる事ではなく、マイノリティとマジョリティという事実は無くならないことかもしれないが、認識をなくすことなのかなと思う。それには、何かを諦めて各々が許容することも絶対にある。諦めることは冷たいことかもしれないが、目を瞑ることも必要だと思う。全ては分かり合えないと思っている。ただ分かろうとする想像は必要だとも思う。

 今まで排除されてきた人が誰かを排除するなら、ダメな事だとは思うが理解は当然できる。けれど、そうじゃない人も多様性の世の中で、多様性を盾に人を排除する。たしかに今回のことも多様性に反した差別的発言と捉える人もいるかも知れないが、誰かを排除した時点でもうそれは多様性ではないのじゃないか。正義の中身は変わっても、正義を盾に誰かを排除するという行為は何も変わってない。排除する対象が時代とともに変わっているだけだと思う。

 世間は常に悪者を探している。どんな人にだって悪い部分はあるはずだと思う。悪い部分と善の部分のバランスが人それぞれなだけじゃないか。悪い部分を必死に隠して生きていかなきゃ排除の対象にされる。悪を罰するのは分かるが、集団で罰することに違和感を覚える。世間はいつだって恐ろしい。


 書いていきながら自分にしては話がデカくなってしまった気がするけど、感じた事は歳を取っても変化はし続けなければいけないことが恐くなったということです。排除はこの先もなくならない気がするから、自分と自分の好きな人が排除されない時代である事を願うのみだと思う。もちろん小さな世界でも自分は誰かを排除をするような人間にはならないようにしよう。

 noteに書いてるのは自分の思考を整理するのに使ってるので、文章の拙さは大目に見てください。




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