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【短編】あにいもうと

 “武藤むとうの兄妹は何か変だ。”

 ――それが、うちの学年にひっそり染み込んでいる暗黙の了解。


***

 昔から、女性の声が苦手だ。怒りの色が含まれたものは、特に。

武藤むとう妹! どうにかしなさいよ、あんたの兄貴!」

 ――お昼休み。

 親友の久美くみと机をぴったりくっつけてお弁当を食べていたら、……荒々しい足音と共に顔も名前も知らない女子が教室に飛び込んできた。

 鮮やかな茶髪が、蛍光灯に当たってテラリと輝く。
 ワイシャツは第二ボタンまであけられていて、チラリと覗く鎖骨がなんとも挑発的だ。
 スカートも短い。耳にはたくさんピアスつけてるし(左右で四つずつつけている)。

 ……うん。
 やっぱり、面識がない人だ。お互いに接点もなさそうだし。

 それにも関わらず、その女子は教室に乗り込むなり、ズケズケと進んできた。
 わたしの目の前まで。

「妹。お前が尻拭いしろよ」

 化粧の濃い顔が、ズイと近づいてきた。
 安っぽい花の匂いがプンと鼻をかすめた。多分、香水でもつけているのだろう。

 わたしは少し椅子を下げて、女子から若干距離を置く。

 心臓がぐらぐら熱くなってきていた。……だってこの状況、明らかに嫌な感じ。
 周囲のクラスメイトたちも何だ何だとこちらに注目しはじめている。わたしの隣の久美も、ぽかんとした表情でわたしと女子の顔を見比べており、言葉を挟む余裕もなさそうだった。

 注目されるのは、苦手なのに。

 わたしは、首から耳たぶまでじんわり熱くなっていくのを感じながら、……口を小さく開いた。

「ごめんなさい。まだ、わたしは状況を理解しきれていなくって……」

 ああ、言葉がぶるぶる震える。
 恥ずかしすぎて、手の爪まで熱くなってきた。
 きっと、今のわたしは全身真っ赤になっているんだろうな。
 ……嫌だなあ。

「う、うちの兄が……な、何かしてしまったのでしょうか……?」

 わたしの頼りない返答にイライラしたのか、目の前の女子はフンと鼻をならした。
 その音に、思わず肩をびくりと揺らしてしまう。

 ……でも、本当に何があったのかを知らないから。

 わたしは、熱い体を震わせながら黙りこくった。
 そんなわたしの様子を見て埒が明かないと思ったのか、女子はチッと舌打ちを打った後ようやく口を開いた。

「あたしの親友が、あんたの兄貴にこっぴどくフラれたのよ」

 そこまで言うと、女子の瞳がさらに鋭く尖った。怒りの感情がさらに一段階盛り上がったらしく、歯茎が見えるほどギリギリと女子は歯を噛みしめた。
 そして次の瞬間、……腹の底からわたしに向かって怒鳴ってきた。

「あのさあ、人が愛情込めて書いた手紙破くとか、人格が破綻してると思うんだけど!?」

 それを聞いた瞬間、わたしは女子の前に深々と頭を下げた。
 体が先ほどよりも熱くなった上に、今度は目の前がクラクラしてきた。

 だって、だって……。

「ご、ごめんなさい! うちの兄が……本当に、何て言ったらいいのか……」

 ラブレターを破くのは……たしかに、人として終わってると思う……!

「だよねえ。そー思うよね。普通さあ」

 女子は、鼻にしわを寄せながら嫌悪感丸出しの顔でわたしを睨む。

「だからさあ、アレ、よろしくね」

 名前もろくに知らない女子は、なおも強い口調でわたしに突っかかる。
 「アレ」、という単語に……わたしは頭を下げながらギュウと顔を突きだくしゃくしゃにしてしまった。

(簡単に言わないでほしい。)

 なんて、心の中ではたっぷり苦い味が広がってしまうけれど。
 ……流石に頭から湯気が出るほど怒っているこの女子に、そんなこと言えない。

「あのさ、その件で紅音あかねを責めるのはちょっとおかしくない?」

 ここで、横から制止の言葉が入った。
 顔を上げて声の主の方に向けると……久美だった。さっきまで状況が飲み込めずポカンとした様子だったが……話の方向がどんどん込み入った方向に進んでいくのに気づいたのだろう。
 女子に負けない位の強い口調で、間に入ってきた。

蒼獅あおしの問題を紅音に背負わせないでよ。可哀想じゃん」

 ――……蒼獅。

 ……その名前を聞くだけで、今は頭が痛くなる。零れそうになるため息をなんとかその場で飲み込んだ。

「はあ? そんなこと言ったって、あたしが話しに行ってもシカトされるんだっつーの」
「だから、それも込みでそっちのトラブルでしょ? 紅音巻き込まないでってば」
「妹なら、兄貴の面倒ぐらい見ろよ」
「いや知らないし。ていうか蒼獅、そういうの嫌がるんだよ」
「何、知ったかぶりしちゃってんの?」
「いや、知ったかぶりていうか、紅音とは付き合い長いから知ってるだけだし。蒼獅、謎のこだわりあるタイプなの」

 久美と女子の言い合いの方が、どんどん白熱していく。

「さっきから何なの!? 気安く『蒼獅』って呼び捨てにしてさ!! 仲良しアピールでもしてんの!?」

 女子が何度目か分からないプッツンを発動させた。

「媚び売ってんのバレバレでキモいんだよ!!」

 そして、久美も負けてはいない。

「そーゆーのじゃないから。勝手な憶測で喋らないでよね」

 もうわたしなど構わず、ふたりはお互いの襟首をつかみ合って叫びあっていた。

「じゃあ、なんでお前下の名前呼んでんだよ!!」
「だって、どっちも名字『武藤』じゃん。武藤、って呼んだらどっちも振り返るじゃん。だから下の名前で呼ぶんじゃん!」
「うっさい。屁理屈言ってんじゃないわよ!」
「屁理屈じゃないし。てか、名前ごときでこんなに過剰反応するなんてさ、あんたも結局蒼獅のこと……」

 これ以上はヤバい。

 わたしの危険察知センサーが、頭の上で真っ赤に点滅した。
 わたしは素早く立ち上がり、つかみ合っているふたりの間に飛び込む。

 久美の口はしっかり塞ぐ。
 女子の肩もぐいと押して、久美から距離を置かせる。

 一瞬のことに驚いたのか、ふたりは瞬きを繰り返して黙りこくってしまった。

 その隙を突いて、わたしはなんとかふたりの間に言葉をねじ込んだ。
 顔はひきつっていただろうし、体中真っ赤なのはそのままだっただろうけれど、……それでもなんとか、ねじ込んで言ったのだ。

 その場が、収まるように祈って。

「大丈夫。わたしが、ちゃんと言っておくから」

(――全然、これっぽっちも、どうしたって、大丈夫じゃないけれど。)


***

「あ、あの」

 帰りのホームルームの鐘が鳴った直後は、いつも騒音が爆発している。
 部活がある生徒は廊下をかけていくし、掃除がある班は怠そうにガタガタと机を動かしていくからだ。

「あの、……すみません。あの……」

 わたしはバクバクと心臓を震わせながら、一年C組の教室前に立った。隣には久美がいる。無理を言ってついてきてもらったのだ。
 扉前で目を泳がしながら細い声を出すわたしに、久美は小さくため息をついた。

「紅音。そんなんじゃ、誰も反応してくれないよ……」
「あっ、えっと。……うん。そうだよね」

 あはは、と顔を引きつらせて久美に笑みを向ける。
 まったくもう、と久美は唇を尖らせる。
 ……そして、何を思ったのか、久美はC組の扉を思いっきり全開にした。ガンッと扉がでかでかとした音をあげる。

「蒼獅ー!! 妹が呼んでるー!!」

 ひゅう、と呼吸がとまる。
 久美が前傾姿勢でC組の教室に顔を突き出しているのを、わたしはガタガタ震えながら眺めていることしかできなかった。
 久美の声は意外と大きくて、廊下を歩く他クラスの生徒たちがチラチラとこっちに視線を向けてくるのが分かった。
 「あれが例の……」なんて呟きも聞こえてしまって……わたしの顔が、また熱くなってきた。

 ふと、一つの足音が聞こえた。

 ――ドン・ドン・ドン。
 うるさくって、無駄に堂々としていて、そのくせやけに一途な感じの。
 わたしがよく知っている……そんな、足の音だ。

 あっ、と思う間もなかった。

 C組の扉から、一人の男子生徒が大股に飛び出してきた。

 わたしよりも頭二つ分は大きい体。
 ゴツゴツとした大きな手足。
 ぐしゃりとシワだらけのワイシャツ。
 鋭い三白眼。口を開けば、ここにも鋭い八重歯。

 それから……。

「うっせェな、ブス!!」

 久美の呼び出しの声以上の、……圧倒的な声量。

「軽々しく俺の名前呼んでんじゃねえ。関節外すぞ」
「名前呼んだぐらいでそんなピリピリしないでよ」

 久美は、しれっとした表情で蒼獅に言葉を投げた。
 ……流石だ。中学校からわたしたち兄妹のどちらとも交流のある久美は、この程度の圧には涼しい顔をしている。他の生徒たちは蒼獅を遠巻きにしながら避けるように歩いているのに……だ。

 チッ、と荒々しい舌打ちが上から落ちてきた。

 蒼獅だ。
 もう一睨み、久美に鋭い視線を投げた後……その細長い瞳は、わたしに向かって方向転換された。

「何」

 腕を組んで、しれっと蒼獅がわたしに言葉を投げる。
 ……態度こそぶっきらぼうではあるものの、声の棘が少し抜けた話し方に変化していた。

「あ、あの……その」

 わたしがモタモタと言葉を紡いでいる間も、口を挟まず黙ってわたしの話を聞いている。
 ……まあ、腕を組みながら、だけど。顎も若干上げているから……なんだか、見下されてるみたいな雰囲気が出ているけれど。

「今日、一緒に帰れないかなって思って」

 わたしの言葉に、蒼獅の眉が少し動いた。
 何かを察したのだろう。
 ……わたしが蒼獅と一緒に下校するということは、「そういうこと」なのだ。

「……」

 蒼獅が少し首を傾げた。眉間に少しシワが寄り、何かを思案するような顔になる。

(……心当たりがないんだろうなあ。)

 例の女子の怒り狂った姿を思い出しながら、はあ、と大きなため息をつく。思った以上に大量の息が口から零れたので、わたしは少しびっくりしてしまった。あわてて、口をキュッと一の字にする。

「……鞄取ってくる」

 しばらくの沈黙の後、蒼獅が口を開いた。
 そして、次の瞬間にはくるりと踵を返して、大股に教室内に戻っていった。

 廊下にポツンと取り残される、わたしと久美。

 ……と、久美が突然ちょいちょいとわたしの肩を叩いた。

「今日はふたりで帰るんでしょ。わたしはこれから部活あるし、また明日ね」
「え」
「じゃーね」
「あ、久美……」

 ひらひら、と簡単に手を振ると、……久美は足早にその場を去っていった。紺色のブレザーの後ろ姿が、どんどん遠ざかっていく。

 ――ドン。

 後ろから、一歩分の足音が……やけに自己主張強めに響いた。
 くる、と振り返れば。

「ふたりで帰んだろ。さっさと行くぞ」

 蒼獅が……この困った兄が、スンとした顔で立っていた。


 ――蒼獅とわたしは兄妹だけど、違うところがたくさんある。

 ……なんて当たり前のことを、蒼獅の隣に立つたびにわたしは感じる。
 今も、下駄箱から出てきた蒼獅の運動靴を見た瞬間に、「やっぱりわたしたちは違うんだなあ」と思ってしまった。足のサイズが、全然違う。

「言っとくけどさァ」

 ビダン、と運動靴を叩きつけるように下に置きながら、蒼獅が口を開いた。
 そして靴に荒々しく足を突っ込みながら、淡々と言葉を投げる。

「俺、全然悪くねェよ」

 いや、そもそもわたしが何の話をしに来たのか全然分かってないよね。

 ……とは、絶対に言わないようにしよう。

 わたしはむぐと唇の端に力を入れながら、ローファーの爪先でトントンと地面を叩く。
 両手を前でしっかりと組む。視線がどんどんに下にさがっていく。そのせいか、スクールバッグの中で教科書が身動きする音がひっそり聞こえた。

 でも、……約束しちゃったしな。

 わたしは唇の端の力を少しずつ緩めた。口からふうっと息が抜けていくのが分かる。
 蒼獅は口を挟まず黙ってわたしが話し始めるまで待っていた。
 ポケットに両手を入れ顎もしっかり上げている……という、相変わらずの「上からスタイル」ではあったけれど。
 それでも、……待ってくれていたから。

「まず、ごめんね」

 目をあげて、蒼獅に言う。
 ……蒼獅の肩が、ひく、と小さく動いた。ただでさえ細長い三白眼が、もっと細長くなる。

「お前、俺に何したん?」

 わたしは人差し指を持ち上げ、蒼獅の着ているシャツをちょんと指した。
 ……実は、朝からずっと気になっていたのだ。

「今日、シャツにアイロンかけるの忘れちゃって。起きた時間がいつもより遅くて……お弁当作るので手一杯だったから」

 シワだらけのワイシャツを眺めながら、思わずガックリ肩を落としてしまう。
 いつもは蒼獅よりも早起きして、彼のワイシャツのアイロンがけやらお弁当作りまでやっているのだが……今日はトチってしまった(わたしのシャツのアイロンがけは前日の夜に終えている)。
 シワクチャのシャツを身に包んでいるからか、なんだか今日の蒼獅はいつも以上に粗暴な雰囲気になってしまっている。

 少しだけ、申し訳ない。

「明日はちゃんと起きるね」

 背中を丸めて軽く頭を下げる。
 いや、下げようとした。

「ばか」

 そしたら、大きな手が伸びてきて、わたしの頭を掴んだ。
 声を上げる間もなく、掴まれた頭をぐい、と上へ向けられた。いきなり顔を上げられたので、視界が光でたっぷりになって、……目まいがした。光は、濃い赤とピンクの狭間みたいな、夕暮れの色をしていた。

「頼んでねェよ」

 そして、蒼獅は夕暮れの光を体中に浴びていた。
 頭こそ掴まれていたものの、……指先にはそこまで力は入っていない。
 蒼獅の声も、いつもより抑えめの話し方だった。

「頼まれてもねェだろ」

 ……大きな声が嫌いなわたし専用の、話し方だ。

「うん。それはそうだけど」
「じゃ、この話は終わりな」

 パッ、と急に頭の上に乗っていた手が離された。
 突然のことにびっくりして、わたしは少しその場でふらつく。

 ――トン、トン、トン。

 ローファーが地面を蹴る音が軽く響く。まるで、踊っているみたいだった。

「遅い」

 ……だけど、そんなわたしに構わず蒼獅は歩き出していて。
 気づけば、蒼獅はもう昇降口を出るところだった。

 うちの高校は、坂の上にある。
 行きはのぼって、帰りはくだる。

 のぼるのは辛い。天気のいい日は太陽が容赦なく肌を刺すし、雨の日は鬱陶しく体に絡んでくる。
 だからといって、くだるのも辛い。……坂がそこそこ急だから、のんびり歩いて帰れるコースではないのだ。

 特に、歩幅がまったく違うわたしたち兄妹が歩くコースとしては……あまりにも不適切で。

「お前と帰ると、時間が長くなるな」

 蒼獅がポツンと低く言った。
 彼の足が、不自然にせかせか動く。わたしに歩幅を合わせているからか、ひどく歩きづらそうだった。

「……ごめん」
「謝ってくんな。やかましい」

 わたしたちを避けるように、周囲の生徒たちが足早に通り過ぎていく。ヒソヒソ小さな声で囁き合うのも聞こえてきて……胃が少し痛くなった。
 周囲の人……特に、うちの学校の生徒に注目されながら、蒼獅と話すなんて嫌だった。後でどんな尾ひれをつけられて広まるか、分かったものじゃない。

 だからわたしは、坂をくだる間中はずっと黙りこくっていた。
 いや、むしろ、坂をくだっても黙りこくっていた。
 坂の下の踏切前についても黙りこくっていたし、踏切を渡った後も黙っていた。
 その先の道もずっとだんまりで歩き続けていた。

 視界に人が歩いているのを確認する度に、唇をぎゅうと噛んで、声を出さないようにしてしまうのだ。
 蒼獅はそんなわたしを急かすわけでもなく、ただ黙って隣で歩き続けた。……せかせかとした、その妙な足取りで。



「……あのね」

 ようやくわたしが話し始めた時には、……わたしたちが住むアパート前まで来ていた。
 ゴミ捨て場の所で、わたしは足を止めておずおずと口を開く。
 わたしが話し出したタイミングで、蒼獅の足が止まった。くる、と顔がこちらに向けられる。「ようやく話すのか」と言わんばかりに鼻をフンと鳴らされた。
 蒼獅の態度は、なぜか全部に独特の圧がある。

「手紙、破いたって……聞いたんだけど」

 少しだけ普段よりも強めの口調で蒼獅に尋ねる。
 隣にででんと立っている兄の顔は、まったく変わらない。眉毛を上げることすらなかった。

「ああ。竹村たけむらか」

 さくっ、と蒼獅は言い放つ。
 あ、……名前はちゃんと覚えてるんだ。
 ちょっと安心した。いや、やったことは本当によくないし、反省の色が一切見えないのは正直どうなんだろうと思うけど。

 なんて頭を巡らしていたら、……ふいに、ドン、と荒い足音が響いた。

 気づけば、蒼獅の顔がすぐ近くにあった。
 高い体を折り曲げて、わたしの顔を覗き込んでいる。

「あいつが何を言ってきた?」

 その瞳が、ギラ、と光っている。……怒りかけている時の表情だ。
 わたしは、静かに息を吸った。ここで変に蒼獅のスイッチを押したら、わたしが間に入った意味がなくなってしまう。
 わたしは蒼獅の瞳を見ながら、首を横に振った。そして、言葉を選びながら話を続ける。

「えっと、その……竹村さん? って人じゃなくて……竹村さんの、お友達の人が、今日お昼休みに来て……」
「どうせ鈴井すずいとかだろ。あの厚化粧女、『友情』っていう言葉履き違えてんだよなァ。で? 何言ってきたワケ?」
「ううん。話したいことはそこじゃないの」
「むしろそれ以外に話すことないだろ。ああいう化粧女は、言葉と美意識ばっか強くて、その部分はペラッペラなんだからよォ」
「だから、話したいのは、……そこじゃないの」

 名前と顔はちゃんと頭に入っているらしい。
 ……これで、もう少し反省してくれていたら……事態は収まるのに。

「と、とにかく……聞いたの。心を込めて書いた手紙を、目の前で破かれた、って……」

 わたしは手を伸ばして、蒼獅の腕に触れた。ワイシャツの袖に、遠慮がちに指を置く。

「わたしね……それ聞いて、『ひどいな』って思った」

 蒼獅は黙ってわたしの話を聞いている。
 昔から、黙りこくった蒼獅はちょっと怖い。何を考えて、次どんな行動をとるのか、……いまいち分かりにくいのだ。

「今度から、もらった手紙を破るようなことは……傷つく人が出るから……」
「で? 『頭下げさせろ』とでも言われたンか? 『妹のお前からキツく言えば兄貴のアイツも頭下げに来るだろ』……ってか?」

 ぐっさり。

 わたしの言葉を遮って、蒼獅は言葉の針でわたしをいじめた。ピン留めでもされたかのように、わたしはギシリとその場にかたまる。
 そんなわたしを見て、蒼獅は初めて眉を動かした。
 眉間に深くシワを寄せて、口の端にもググと力が入る。
 ……「不愉快」という三文字が、分かりやすく顔に現れていた。

「ちっ、違う! わたし自身がひどいなと思ったから言ってるの!」

 蒼獅の腕を両手でギュウと握りながらわたしは早口で主張した。
 ……それでも、蒼獅の顔は曇ったままだ。むしろ、どんどん悪化しているようにも見える。

「そりゃそうだろ。『ひどい』と思われることをわざわざやったんだから」
「……え?」

 聞き返すわたしをうざそうに睨みながら、蒼獅はフンと腕を振った。わたしの両手が弾かれる。
 チッ、という荒い音が、短く聞こえた。

「言っとくけど、向こうから仕掛けてきた話だからな。……向こうがイラつくこと言ってきたから、こっちもイラつくことをやり返してやっただけだ。それ以上でも以下でもない」

 蒼獅は、ギリリ、と奥歯を噛みしめた。
 一ミリも自分の非を認めない。そういう態度だった。

「目には目を。歯には歯を。不愉快には不愉快を。……そんだけだ。謝って欲しいなら、まずは向こうからだろ。それが筋だな」

 わたしは、蒼獅の頑固な態度を見て、……ついため息をついてしまった。

 なんでこの兄は、誰にも染まろうとしないのだろう。
 どうして、体だけそれらしく動かしてその場を誤魔化してしまわないのだろう。
 なぜ、こんなに自分の話をはっきりできるのだろう。

 全部が、……不思議だなって思う。

「でも、今回みたいにわたしの教室に乗り込んでこられるのは迷惑なの。久美も困らせちゃって……恥ずかしかったなあ」

 そして、その不思議はわたしにも適用される。
 普段はどんなにひた隠しにしていても、……蒼獅と話していると、つい本音が口からヘロと出てしまう。自分でも無意識のうちに。

 そして、わたしが零す本音は……。

「……お前に恥かかせたのか。あいつら」

 ――蒼獅のスイッチを、毎回押してしまう。

 背筋に冷たいものが流れた。

 わたしはパッと両手を口に当てて黙ったけれども……もう間に合わなくて。
 目の前の蒼獅の……兄の顔には、深い影が生まれていた。表情のつくりがどんどん激しくなっていくのを、わたしは黙って見ていることしかできなかった。
 というか……声を出すことができなかったのだ。

「話つけてくる」

 そう吐き捨てるように言った後、蒼獅はくるりと踵をかえし、今まで通っていた道を大股で歩き始めた。
 ザリ、ザリ、ザリ……という雑音がどんどん遠ざかっていく。
 今まで通っていた道……その先にあるのは、「学校」だ。
 当たり前の事実に、ぞわりと鳥肌が立つ。

「や、やめて」

 なんとか声を絞り出して、わたしは蒼獅に駆け寄った。
 蒼獅の腕を掴んで後ろに引っ張る。体を反らせて全体重を後方に乗っけた。

 ……それでも、蒼獅は止まらなくて。

 むしろ、わたしがズルズル前へと引っ張られていた。
 ローファーの底が、アスファルトの地面にザリザリ削られる音が聞こえる。小石が靴裏に擦れて……気味の悪い振動が、わたしの体を流れる。

(――嫌だ。)

 心の底で、わたしは叫んだ。

 違う。
 ……わたし、……わたしは、「そんなこと」望んでない。

 本当に嫌だよ、蒼獅。
 やめて。
 こわい。怒らないで。

 蒼獅。……蒼獅。

(――そっぽ向かないで。)

「そんなことしたら、……わたし、……家出てくから!」

 気づけば、わたしは叫んでいた。
 わたしの言葉が空気を振動させた瞬間、蒼獅は足をピタリと止めた。

 それと同時に……わたしは蒼獅の腕から手を離し、急いで後ろへ下がった。

 だって、一気に熱くなったのだ。
 わたしの声を聞いた瞬間、蒼獅の背中がカッと熱くなったのだ。まるで、体の中の血が一気に沸騰したかのような……異常な熱さだった。
 わたしは、また一歩後ろへ下がった。
 蒼獅と微妙な距離を置く。

 蒼獅の首が、ゴキ、という音を立てる。

 ゆっくりゆっくり、……この兄は、わたしに向けて顔を向けた。
 こめかみには、太い筋が刻まれていた。

 ……ああ、やっぱり。

 あの時感じた「熱い」という感覚は間違っていなかったんだな。
 ……なんて、わたしはこの時、ちょっと内心納得してしまった。

「……はァ?」

 ほら。
 首も、耳も、顔も、目も、……その長い手足さえも。

 蒼獅の全部が、真っ赤に染まっていた。


「前言撤回しろ!! 紅音!!」

 ――“吠えた”。

 もう、「吠えた」という単語がぴったりの怒鳴り方だった。
 アスファルトの地面を動かすほどの声量に、制服がびりびり震えるほどの圧力。
 真っ赤になった体の上には、空からの夕暮れの色も落ちていて……その姿はまるで獣のようだった。
 とてもじゃないが、……同じ人間のようには見えなかった。ましてや、「家族」で「兄」だなんて、……とても思えなかった。

「家出るって、……どうやって生きていくつもりだよ。お前」

 しかし、その獣は人間の言葉を話していた。

「先月高熱を出して学校を一週間も休んだのはどこのどいつだ? 季節の変わり目には絶対風邪ひくし、体力だって全然ねえくせに。外出てぶっ倒れたら、誰がお前を助けんだよ」

 そして、……その獣はわたしのことを話していた。

「金だってどうすんだよ。部屋にある貯金箱で足りんのかよ。無理だろ」

 わたしのことを、話していた。

「誰にも頼らずどうやって生きてくんだよ。言っとくけど、あの久美とかいうブスに頼るのはナシに決まってっからな。そんな近場に逃げるぐらいだったら、最初っから逃げようとすんな」

 ギリ、と歯ぎしりをする音が響く。
 獣の……いや、人間の……わたしの「兄」が、苦しそうに顔をしかめていた。

「誰が、今まで守ってやったと思ってんだよ」

 ただ二か月誕生日が早いだけの兄が、顔をしかめていた。

「前言撤回しろ! このバカ!!」

 ……だからこそ。

「守られてなんかないよ。わたしはわたしで、ちゃんと生きてきたよ」

 わたしはわたしで、この獣の前だと吠えてしまいたくなる。
 両手をギュウと握りしめると、爪が皮膚に噛みつくのを感じた。それでもわたしは、止まることができない。

「蒼獅はいつもそうだよね。わたしを弱い子扱いばかりする。……それなら言わせてもらうけど」

 わたしの声は、……細くて小さい。

「家の洗濯も掃除もご飯も、やってるの全部わたしなんだからね。お金のやりくりだって、わたしがノートで管理してるんだから」

 風に吹き飛ばされそうなほど、ふわりと軽い声だ。

「……なんで、そういう、……『守ってやった』みたいな、『一方通行』みたいな言い方するの。蒼獅にとって、『妹』ってそういうことなの? 『家族』ってそういうことなの?」

 だけど。
 わたしだって、これでも“吠えている”んだ。

「そんなの変。押しつけないで」

 遠慮なく吠えてくる蒼獅に乗せられて、わたしも精一杯吠えた。

「そんなんだから、人の気持ちも分からないんだよ。だから、人を傷つかせたり怒らせたりしちゃうんでしょ。それを自分ルールで正当化させるのはおかしいでしょ」

 わたしの声が、どんどん大きくなっていく。

「あと『大きな声出さないで』っていつも言ってるじゃん! こわい人嫌い! 声大きい人はもっと嫌い!」

 ひょっとしたら、わたしも獣なのかもしれない。

「蒼獅なんて大っ嫌い!!」

 ――あんな兄の妹なのだから、……やっぱり、わたしも人間よりかは獣に近いのかも。

 なんて、……思いの丈をぶちまけた後、わたしは頭の片隅でちょっと思っていた。
 久し振りに大声を出したので、なんだか喉の辺りがザラザラする。ちょっと痛い。
 ゼエハア、と肩が上下に左右する。全力で校庭を駆け抜けた後みたいに、体力がごっそりと抜けていた。

 舌打ちの音が聞こえる。

 ……目の前の蒼獅だった。
 いくらか顔の赤さはとれてきたものの、歯をギリと噛みしめて「怒り」を浮かべていた。

 ――ドン。

 地面を踏みしめる音が響く。――蒼獅がその長い足でわたしへと近づいている音だ。
 長い足でわたしに近づき、長い腕をのばし……大きな手をわたしに広げた。

「お前、マジでよォ……」

 歯ぎしりの狭間から、くぐもった声が聞こえた。その声量は先ほどよりも大分抑えられたものとなっていた。
 小麦色の太い指が、わたしの腕に触れようとしている。

 そして……。

「ちょっと!! あんたら、また喧嘩してんの!!?」

 ……急にアパートの一階から、甲高い声がツーンと響いた。
 あの蒼獅も、ビクリと体を震わせて動きをストップさせる。わたしを掴もうとしていた手が、ぶらんと空中に中途半端に投げ出された。

 ペッタン、ペッタン。

 薄いサンダルの音が、忙しそうに近づいてきた。

「蒼獅! 謝んなさい!!」

 わたしたちの間に入り込んできたのは、うちのアパートの103号室に住んでいる安本やすもとのおばちゃんだった。まだ夕方なのに、おばちゃんはTシャツに短パンという、「寝間着姿」をしていた。
 前髪カーラーをつけているおばちゃんは、両腕を大きくブンブン振った。わたしたちを無理やり引き離して距離を置かせる。

「ちょっと待て! なんで俺が謝んだ!!」

 蒼獅が間髪入れずに叫ぶ。「何も知らねえくせに」と言わんばかりにおばちゃんを強く睨みつける。
 しかし、おばちゃんは涼しい顔だ。おばちゃんは、久美以上に蒼獅という存在の荒々しさに慣れているのだ。

「よく分かんないけど、どうせあんたが悪いんでしょっ。紅音ちゃん困らせてるんでしょっ。早く頭下げなさい!」
「紅音も嫌なことバンバン言ってたわ!! なんで、あいつは謝んねーんだよッ!!」
「紅音ちゃんには紅音ちゃんの言い分があって当然でしょ!」
「俺にも適用されるべき言葉だろ、それは!!」

 ギャアギャア、その場が騒がしくなる。

 ……そこでわたしはハッと周囲を見回した。
 わたしたちが言い合いをしていたのは住んでいるアパート前にあるゴミ捨て場だ。
 近所に住む人達が、わたしたちのことを遠巻きに見ているのが分かった。
 アパートの下の階の人達は窓から顔を覗かせてこちらを見物しているし、買い物帰りの主婦だったりランニングしている男性なんかもチラチラとこちらに視線を投げながら通り過ぎていく。
 みんな、「またか」みたいな表情を浮かべていた。

 カッ、と頬が熱くなる。

 わたしは、肩にかけていたスクールバッグを両腕に抱え直し、急いでその場を逃げ出した。
 まっすぐアパートの階段まで走り、金属製のその階段を全速力で駆けのぼる。カンカンカン、という靴音すらもわたしを冷やかしているように見えた。

「あっ、オイ!! 待てコラ、紅音!!」

 後ろから蒼獅の荒い声が追いかけてきたけれど……わたしは振り返らなかった。
 急いで二階にのぼり、その奥の部屋まで足を急がせる。
 「204」という数字が張られた部屋で足を止めると、鞄に手を突っ込み手のひらサイズの小さな巾着袋を取り出した。そして、その袋の中から家の鍵を出した。
 震える手で、鍵穴に鍵を差し込む。
 その時……カンカンカン、と遅れて階段をのぼってくる音が、聞こえてきた。

「紅音! だから待てって!!」

 ……蒼獅だ。
 やかましい足音を立てながら、わたしに近づいてくる。
 わたしは、グルンと蒼獅に顔を向けると、空になった巾着袋を投げた。思ったより巾着袋は飛ばず、すぐにその布切れはヘロヘロと廊下に倒れ込んでしまった。

 ――わたしの体は熱かった。

「声大きい人嫌い」

 恥ずかしかったし、……やっぱり、怒ってもいたから。

「わたし、今日の晩御飯作らないから」

 これが、わたしの渾身の捨て台詞だった。
 眉間にシワを寄せながら、巾着袋を拾っている蒼獅を睨む。
 そして、急いで鍵を回して家に入った。

(こういう日に限って、……お父さんの帰りは遅いんだから。)

 ローファーを投げ捨てるように脱ぎながら、わたしはお父さんに恨み言を言った。
 蒼獅が家に入ってくる前に、わたしは居間に走った。

 家は狭い。

 扉を開けると、短い通路が見える。通路の右側には洗面所がある。そこにお風呂やらトイレがあって。
 通路を通れば、そこはもう居間だ。
 居間に入ってすぐ右側にはコンロがあって。折り畳み式の机を立てかけるスペースがあって。左側には布団が入っている押入れがあって。

 わたしは迷わず押し入れの戸を開いた。

 押し入れの上の段に三人分の布団が収まっている。そのうちの二人分の布団を無理やり引き出し、上の段に無理やりスペースを作る。
 そして、制服姿のまま押し入れの上の段に乗り出した。

 ドタドタ、短い通路を歩く蒼獅の足音が聞こえる。

 その頃には、わたしは押し入れの戸を閉めていた。
 そして、上の段で毛布にくるまって小さく縮こまる。……この家には、個人の部屋なんて贅沢なものはない。一人になりたかったら、無理にでも空間を作らないといけないのだ。

 わたしが押し入れに閉じこもったのを察したのだろう。
 ……戸の外で、チッ、という声が聞こえた。

「そのままずっと寝てろ!」

 それが蒼獅の捨て台詞だった。

 ドサッ、と蒼獅が地面に鞄を置く音が聞こえる。やかましい足音が、遠ざかっていく。
 奥で、ガシャン、と玄関の扉が荒く閉められるのが分かった。
 ……頭を冷やしに、外へ出たのだろう。

(蒼獅の捨て台詞は、ちゃんと捨て台詞っぽいのになあ。)

 熱い頭を毛布に押し付けながら……わたしは静かに思った。
 目をギュムと閉じると、目頭が熱くなってきた。鼻先も、じんわりと熱を持つ。

 どういう種類のものかは分からないけれど、……涙が出てきた。


… … …


 気づいたら、夢を見ていた。

 「夢」だとすぐに分かったのは、わたしの手足が今よりもずいぶん細くて小さかったから。
 そして、……体中痣ばかりなのに、これっぽっちも痛みを感じなかったからだ。

 わたしは、交番にいた。
 そして、年賀状を両手で持ちながらワアワア泣いていた。

 わたしの隣には警官のおじさんがいて、色黒い手でわたしの背中をさすっていた。
 それでも泣き止まないわたしは、床にペタリと座り込んでずっと泣いていた。
 警官のおじさんは何度も「椅子に座っていいよ」と言ってくれたけれど、……わたしはその言葉に従うことができなかった。

 ――……だって、その当時のわたしは、「椅子に座る」なんて贅沢をお母さんから許されていなかったのだ。

「三年前、電話で話したきり……姉とは連絡をとっていませんでした」

 奥では、男の人のヒソヒソとした声が響いていた。

 わたしは目をぐちょぐちょに濡らしながら、奥で警官と話しているくたびれたジャンパー姿の男性をじっと見つめた。

 その人はまだ三十代だったのに、髪に白髪がチラホラ見え始めていて。
 警官の人の言葉にウンウンと小刻みに相づちを打ちながら、ポツポツと静かな声でその人は話していた。

「三年前は、……紅音ちゃんが六歳の時の話ですけど、姉は子どもに暴力なんて振るってなかったと思います。むしろ、愛情いっぱいに育ててました。……ひょっとしたら、離婚した後から、何か変化があったのかも……」

 姉。……その人が言うその単語は、わたしにとっては「お母さん」だった。

「……姉とは住む場所が離れていたし、僕の方も家が結構ゴタゴタしてて……何も気づけませんでした」

 痣だらけの体に、痛みが走ったような気がした。
 年賀状から手を離し、自分で自分を抱きしめる。
 細い腕。薄くて小さな手。……何の慰めにもならなかった。

(――お母さんも、大変だったんだろうな。)

と、頭の中で呟く。

 ……辛かったんだろう。きっと、何かあったのだろう。
 精神的にも、肉体的にも、追い詰められていたのだろう。
 ひょっとしたら、わたしの存在自体が、お母さんを追い詰めていたのかもしれない。

 でも、……だから、わたしは逃げたのだ。

 お母さんの三角形の瞳をかいくぐって、お母さんの弟だという人からの年賀状を持って、家を裸足で飛び出した。
 年賀状に書かれた住所に向かおうとした。
 だけど、道に迷って。交番で呼び止められて。

 わたしは、その瞬間から涙をぼろぼろ零しながら、警官の人に言ったのだった。

『叔父さんの方に連絡をとってください。お母さんにだけは、連絡しないで下さい』

 ――そうやってわたしは、自分のために……お母さんを捨てた。


 場面が、切り替わった。

 気づいたらわたしは、お母さんの弟にあたる人に手を引かれて、歩いていた。もう周囲は真っ暗だ。
 夢の中なのに、なんだか「夜の匂い」が鼻の奥に入ってきたような気がした。
 目の前には、アパートがちんまり建っている。
 「あそこが、叔父さんの家なんだよ」と、静かな声が上からふってきた。

 ――また、場面が切り替わる。

 橙色の灯りが、わたしを照らしていた。……玄関の、蛍光灯の色だった。
 そして、靴も脱がずにちょこんと立ちっぱなしのわたしがいて。

「お前、誕生日いつ?」

 顎を上げて偉そうに聞いてくる少年がいた。
 わたしは、何度か唾を飲み込んだ後、……ゆっくり口を開いて声を出した。

「……七月」

 今のわたし以上に、細くて軽い声だった。
 そんな弱っちい声を聞いて、少年は……眉を上げてぎょっとした顔をした。こんな奴初めて見た、と表情だけで語っていて、……わたしの方も、「こんなに正直に顔に出す人いるんだ」と驚いた。
 少年は突然頭をガシガシとかき、はあ、と大げさなため息をついた。

 少年の手が、わたしの腕を掴む。

 わたしは、ぎょっとした。

「まず、靴脱げ」

 ぎょっとするほど……熱い手だった。
 少年の手があんまりあったかいので、……わたしは余計に委縮して首をすくめた。
 そんなわたしにイラついたのか、少年はムッと眉をひそめた。
 グワッ、と口を大きく縦に開く。八重歯がひょっこり顔を覗かせる。

「おい! 俺は五月生まれだぞ! 兄貴の言う事はちゃんと聞け!!」

 頭がぐわあんと声で揺れた。ただでさえ薄い体が、目の前の少年の……いや、“兄”の大声でフラフラする。

「聞いてんのか!!」

 少年……じゃなかった、“兄”は、なおもギャアギャア耳元で騒ぐ。
 わたしは口からフルフル息を吐きだした。

 ……さて。

 この数秒で「兄貴」の立場に立ったこの少年に、……わたしはまず何と声をかけたのだったか。
 たしか……。

「声大きい人、嫌い」


… … …


 押し入れの戸をおずおずと開いたら、蒼獅の背中が見えた。
 蒼獅はガサゴソとビニール袋の中を何やら漁っている。背後でわたしが起きた気配は察知していそうだったが、こちらに顔を向けることはなかった。

 ……目の縁が痛い。鼻の先も、ちょっとだけ。
 泣きすぎたみたいだ。

 わたしは鼻をすすりながら押し入れの戸をどんどん開けていき、ゆっくり押し入れの上の段から降りた。

「……何のカップ麺がいい」

 しずしずと蒼獅の後ろまで近づいていくと、……この兄はビニール袋をガバリと大きく開いてわたしに中身が見えるようにした。
 ビニール袋の中には、カップ麺がいくつか入っていた。今日の夜だけでは食べきれない量だ。……きっと、今後の夜食用も込みで買いこんだのだろう。
 わたしは、反射的に顔をしかめる。
 インスタントラーメンは嫌いだった。

「食べない」
「ふざけんなよ」

 歯をギリギリ鳴らしながら、蒼獅がグルンとこちらに顔を向けた。
 ……言葉遣いこそ荒々しいものの、いつもの蒼獅だった。もう、顔は赤くなっていない。
 わたしは、ふう、と静かに息をつくと……玄関に向かって足を進めた。押し入れに閉じこもっていたせいで制服がシワだらけだったけど、気にする心の余裕が今はない。

「外暗くなってンぞ。どこ行くんだ」

 蒼獅が後ろからドタドタついてくる。
 ……いつの間にやら蒼獅は部屋着に着替えていた。だぼっとしたパーカーに色のくすんだジーパン。
 そのジーパンもう捨てて欲しいなって言ったのに、と心の中でポツンと呟く。

「コンビニでお弁当買う」
「ちょっと待てよ。今財布取ってくっから」
「わたしのお金で買う」
「やかましい。黙れ」

 脱ぎ捨てたはずのローファーは、きちんと揃えられて玄関にあった。
 それが何だか不思議で、膝を抱えてわたしはぼんやりローファーを眺めていた。
 そんなことをしていたら、蒼獅が財布片手にわたしの元へ足音荒くやってきた。

「自分のお金で買う」
「うるせェ。コンビニの弁当の値段なんてたかが知れてるだろ」

 ……散々泣いた後は、いつもよりまごつかないで蒼獅と話せる。
 そして、わたしが泣いた後は、蒼獅も蒼獅で話し方がいつも以上に柔らかくなる。

 不思議だ。わたしたち。

 わたしは、鼻をスンとすすりながら……膝を抱えた。
 しばらくして、上から蒼獅の声がふってきた。ちょっとだけなだめるような響きのある話し方で、だけどやっぱり上から目線な話し方で、蒼獅は話した。


「おい、俺は五月生まれだぞ。兄貴の言う事はちゃんと聞け」


***

「なあなあ、例の話聞いたか?」
「何の話?」
「“あの”武藤蒼獅が……女子に頭下げて謝ったんだってよ。『嫌な振り方して悪かった』って……教室の中でさ」
「何気に公開処刑じゃん……。つか、あんなプライド高そうな奴がよく謝ったな」
「どうせアレだろ。妹になんか言われたんだろ。あいつがそういう行動とる時はいつもそうだし」
「……。つか、前々から気になってたんだけど。武藤兄妹ってどういう感じなん? 顔も体格も違うし……双子ではないよな?」
「……えー、よく知らん。あんま細かい事情知ってるヤツいねえんだよな。あいつらもあんまり話したがらないし」
「一緒に行動してる所見ねーし……仲悪いんかな」
「その割に、蒼獅の地雷、妹だけどな」
「え、マジ? シスコン?」
「うーん……そこまでは知らんけど。でも、妹の悪口言うとめっちゃキレる。今回こっぴどく女子を振ったのだって……妹のこと悪く言われたかららしいぜー」
「え? 何て言ったん?」
「時々いるんだよ。『手間のかかる妹の面倒見て大変そうだね』とか言って蒼獅の気を引こうとするヤツ。蒼獅、そーゆーヤツに対してとにかくボロクソやるから」
「こわっ……」
「だけど妹が何か言うと、そーゆーヤツ相手でも蒼獅は頭下げたりするんだよなあ」
「……。変なの」
「だよなあ。変な感じだよなあ。あいつら。」
「でも、……まあ、あいつらなりに『兄妹』やってるってことなのかもな」
「少なくとも、本人たちはそう思ってると思うぜ」
「……やっぱ、変だな。あの兄妹は」

***


 “武藤むとうの兄妹は何か変だ。”

 ――それが、うちの学年にひっそり染み込んでいる暗黙の了解。

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