ヘンデルの『メサイヤ』がハードロックな件♬
4月30日㈰の午後は、小田原駅を早朝に出発して、千葉市民会館で開催される「千葉混声合唱団」の定期演奏会へ。
3年振り、あるいは4年ぶり?の開催に漕ぎ着けるという苦難の道を経て披露されたのは、その演目が現在の状況に相応しい、G.F.ヘンデルの『メサイア』。
現在のドイツ近郊に生まれながら、音楽家としては波乱万丈、苦難の道を歩み、当時は、必ずしも音楽の中心地とは目されていなかった英国のダブリンとロンドンで日の目を見たこの作品は、イエス・キリストの受難の生涯を描きながらも、本当はヘンデル自身の人生を仮託して、彼に准えたのではないかと思うような作品ですね。
『メサイア』について
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
Georg Friedrich Händel
クライマックスは、第二部の最後に披露される、誰もが知っている「ハレルヤ!」(神の祝福とご加護あれ!)です♫
ハレルヤコーラスの後半に、トランペットとティンパニーが加わって、天使に導かれてイエス・キリストが昇天する様が、まるで視覚的に表現されたかのような錯覚に陥る見事な出来栄えですね。
したがって、キリスト=メサイアが復活を遂げたことを人々に延々と語る第三部は、むしろ、アンコールの趣がありましたね。
今回も、合唱団には小中高校の後輩たちが多数出演しており、まるで天から降りてきたかのような歌声を響かせており、さらには、運営にも後輩が携わっており、さながら、プチ同窓会の雰囲気が漂っていましたね♥
こういうイベントが開催されるようになった状況を素直に喜びたいと思います。
※※※
さて、これを機会にヘンデルのことを調べてみたら、
特に、後述する記述が興味深いですね。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(ドイツ語: Georg Friedrich Händel [ˈɡeːɔrk ˈfriːdrɪç ˈhɛndl̩] ), 1685年2月23日(グレゴリオ暦3月5日) - 1759年4月14日)は、ドイツ出身の作曲家、オルガニスト。
イタリアで成功した後にイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化した。
後期バロック音楽の著名な作曲家の一人で、特にイタリア語のオペラ・セリアや英語のオラトリオの作曲で知られ、自ら公演事業にも携わった。
オラトリオ『メサイア』は現在でも特に人気が高い。
●基本情報
生誕
1685年2月23日
死没
1759年4月14日(74歳没)
学歴
ハレ大学
ジャンル
バロック音楽
職業
作曲家
オルガニスト
活動期間
1704年 - 1759年
※※※
ヘンデルは、ひょっとしたら、炎の反骨精神を保持した、元祖ロックスピリッツの持ち主だったように感じさせるものがあります。
当時の音楽先進国のドイツで生を受けたヘンデルが、なぜ、“発展途上国”であった英国に渡り、それも首都のロンドンではなくて、ダブリンで評価された後に、最後にロンドンでの成功を目指したのか…。
この曲は、現代でいえば、アンドリュー・ロイド・ウェッバーのロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』のような作品だったのかもしれませんね。
***
『ジーザス・クライスト・スーパースター』(Jesus Christ Superstar) は、聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカルである。ティム・ライスが作詞、アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲をそれぞれ担当し、1971年にブロードウェイで初演された。
元々は、1969年に物語性を有する歌曲作品としてシングル『Superstar』が発表され、翌年に『Jesus Christ Superstar』と題した2枚組LPレコードが発売された。
ジーザス役にイアン・ギラン、マグダラのマリア役にエリック・クラプトンのバックアップボーカルを務めていたイヴォンヌ・エリマン、ユダ役にマレー・ヘッドらを起用して製作されると、1971年ビルボード年間アルバム部門で1位を得るなど大好評となり、1971年のブロードウェイの舞台公演に繋がった。
ブロードウェイは1973年まで、ロンドンは1980年まで続くロングラン公演となった。
ヘンデルの『メサイア』は、宗教的には、キリストの生涯を冒涜するものだという弾圧にもめげずに、キリスト=メサイアとして祭り上げられて苦悩する人間イエスの姿を赤裸々に描こうとしたのが、一般大衆のココロを掴んだのです♫
ちなみに『ジーザス・クライスト・スーパースター(JCSS)』の方は、最初に、アンドリューの構想をもとに楽曲を録音したコンセプトアルバムが発売されて、それが評判を呼んでミュージカルとしてブロードウェイでも上演された後に映画化されて人気を博したというように記憶しています。
その際に、アルバム版『JCSS』で、主役のジーザス・クライスト(イエス・キリスト)を演じながら歌ったのは、若き日のイアン・ギラン。
そう、ディープ・パープル(DP)に加入した直後の彼が主役の座を掴んだのですが、その後、DPのヴォーカルとして多忙を極め、ハードロックバンドの大人気ヴォーカリストとなったのでした。
したがって、アルバムの収録以降のミュージカルや映画には、彼は参加していません。
さて、アルバムの『ジーザス・クライスト・スーパースター』を聴いたことがありますが、ロックスターとしての人気を獲得する前のイアンの熱唱を聴くことができる貴重なレコードでもありますね。
彼の歌唱スタイルに、どことなく、原点となった『JCSS』の雰囲気の要素が感じられるのも、大変興味深いものがあります♪
※※※
『メサイア』はダブリンでこそ大成功したものの、ロンドンの聴衆は冷淡だった。
1743年3月23日のロンドン初演では、宗教的な内容を劇場で娯楽として演奏することが神に対する冒涜であるという非難がなされ、それは何年にもわたって続いた。
『メサイア』は1743年に3回、1745年に2回演奏されたが、その後はしばらく演奏されなかった。
台本を書いたジェネンズ自身、『メサイア』の音楽を批判した。
ロンドンの捨子養育院でヘンデルは慈善演奏会を開くようになり、1750年5月1日に『メサイア』を再演した。
この後も毎年ヘンデルは捨子養育院で『メサイア』を上演し、1751年以降はコヴェント・ガーデンでも演奏を続けた。
これによって次第にロンドンでも支持者を増し、高く評価されるようになった。
遺言によってヘンデルは捨子養育院に『メサイア』のスコアとパート譜を寄贈した。
ヘンデル没後も『メサイア』は高く評価され続けたが、ウェストミンスター寺院では1784年にヘンデル記念祭が開かれ、513人からなる大編成のオーケストラを使って演奏された。
その後も巨大な編成による『メサイア』の上演は続けられ、演奏者の数は増え続けた。
第1回万国博覧会のためにロンドン郊外に建てられた鉄とガラスの巨大構造物(水晶宮)において、1857年に第1回ヘンデル・フェスティバルが開かれ、500人のオーケストラと2000人の合唱によって『メサイア』を含むヘンデル作品が上演された。
1859年の第2回フェスティバル以降、フェスティバルは3年に1回の頻度で行われた。
フェスティバルの人数がもっとも多くなったのは1883年で、500人を数えるオーケストラと4,000人にのぼる合唱団によって『メサイア』が上演された。
このような巨大な編成による演奏は20世紀になっても続けられたが、一方でヘンデルの原作から離れすぎているという批判も現れた。
イギリス以外でも『メサイア』は演奏された。
ドイツ語圏では1772年にハンブルクで演奏された。
しかし、ヘンデルの原曲に対して多くの管楽器をつけくわえた編曲ものがまかり通っていた。
フランスでは遅れて1873年にはじめて全曲演奏された。
アメリカ合衆国では1770年以降に抜粋が演奏された。
全曲演奏は1818年のクリスマス・イブに行われた。これが『メサイア』をクリスマス・イブに上演する習慣のはじまりである。
※※※
バッハとの関係
ヘンデルはヨハン・ゼバスティアン・バッハとはその生涯を通じて会うことはなかったものの、音楽史に衝撃を与えた両者は同じ1685年生まれで出生地もほど近く、しばしば対比をされる。
バッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった。
世俗的で宮廷風の特徴を持つヘンデルの音楽は現代においてバッハよりも低く評価されがちであるが、史実としては、ヘンデルが上述の通り生前より名声と富を勝ち取っていたのに対し、バッハの評価はむしろその死後、特に19世紀以降において高まったものである。
バッハが音楽家一族として有名なバッハ家の生まれであったのに対し、ヘンデルの家族は音楽とは無関係だった。
またヘンデルは生涯独身で子供はいなかったのに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供に恵まれていたなど、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいた。
なお、ヘンデルに目の手術をしたジョン・テイラーはバッハにも手術を施しており、その後バッハも視力を失っている。
各国を渡り歩いたヘンデルがオペラやオラトリオなどの劇場用の音楽で本領を発揮したのに対し、常時宮廷や教会機関の定職を得てドイツから離れなかったバッハは教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)を中心に活躍した。
そして、オペラ・セリアの衰退とともにヘンデルの作品群がやがて忘れられていったのに対して、バッハの作品はドイツ音楽界で熱狂的に支持されるようになり、
「3B」(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)を提唱したハンス・フォン・ビューローによって神格化されるという経緯を辿った。
【日本では俗に、バッハを「音楽の父」、ヘンデルを「音楽の母」とそれぞれ呼ぶことがあるが、】
これはヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で20世紀に入ってから考案された呼び名である。
以上、Wikipediaより
※※※
今は昔のこと
音楽室には、歴代の音楽家たちの肖像画が掲載されていて、
楽聖と呼ばれたベートーヴェン
音楽の神様に愛されていた天才と呼ばれたモーツァルト
音楽の父と呼ばれたバッハ
に対抗して、
音楽の母と呼ばれたのがヘンデル
だったのですが、この呼び名は日本だけだそうですね。
たぶん、肖像画が女性ぽくて、母性を感じさせるものがあったからなのではないかと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?