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『時の滴』

 静かな退屈をしのいで今日を終え、明日を迎える。

 これが入院時の「お決まり」の時間の流れに思える。ぼくはベテラン患者。何度入院したのかーー回数がどうでもよくなるくらい多い。それだけの多さ、とだけ認識してほしい。

 きっと、外は騒々しいだろう。そういえば昨日は、甲子園で慶應附属高校が優勝して、盛り上がっていたとかなんとか。

 きっと、スタバに行けば、夏休みの宿題をギリギリに終わらせる、学生の急いだ姿を目にするだろう。

 夏が終わる。

 ところが、だ。

 ぼくの時間軸は、社会のそれーーというか病棟という特殊空間のなかの時間軸に生きているーーと隔離されている。

 病院の中の秒針は、極めてゆっくりと進みゆくように思える。

 医療従事者はせわしないタイムスケジュールで動いているのだろう。ところがに、入院患者のぼくの中で流れてゆく時間は、その忙しさすら無縁に思える。ひたすら静かに、ただただ、時間が流れる。

 時間の川に流されると言うのが、適切なのかもしれない。

 見過ごしがちかもしれないかもしれないが、時間には「規範」がある。仕事に合わせた、休日に合わせた、家族との休みに合わせた時間の規範があるのだ。

 「どの時間に何をするのか」ーー。

 決めていることに気づかないだけで、実際には無意識のうちに時間軸と行動はパターン化されているように思える。

 それで、入院中のぼくの時間軸と行動は?

 ない。

 あったとしても、かなりルーズだ。仕事のように〜時までに「必ず」という区切りはない。曖昧に過ぎる。なにかを提供する側にないからだ。

 ふと気づくのだーー提供することの意義深さを。考えて動く。時には否定も、肯定も。評価が悪いこともいいこともある。

 それでも、ぼくらは提供し続ける。そうやって生きてきた。そして、生きていくのだと思う。

 自発的に、見知らぬ誰か・何かに「サービス」を提供するのは、とても神経を使う。顕著なのは、労働というサービス提供に対して給与という報酬を享受できる、給与システムだ。

 大体の人ーーおそらく日本人の8割はこのように労務を提供して、対価を得るのではないだろうか。

 一方、ぼくという入院患者には「求められも」しないし「付与」されもしない。居るだけでいい。なんとなく、幼少期を思い出した。

 期待されない、あの特有な時期。

 当然、入院することですべての患者が、幼児期に退行すると言う意図はない。人による。苦悩や苦痛と戦う時間、理不尽に抗(あらが)う方もいる。

 あくまでぼくの話だ。
 もちろんぼくの話だ。 
 ぼくは入院時に、静かな時間に流されるのだ。
 それを選んでいるのかもしれない。
 意識的か、無意識的かは分からない。

 そうだ。

 ぼくは、この時間の退屈さに日常との隔離(自由意志に基づく)された感覚、取り残されたみじめさを抱くーーこう自分に情けをかけることで、自分を開き直らせている。健康な証拠だ。

 ここで病んでしまっては、身を休めるための入院が精神を病む入院になってしまう。長くなるので割愛するが、整形外科に救急搬送された時に、人生で最大の挫折と屈辱を味わった。

 思い出したくない。 

 今、書き残そうとしているのは、病棟内での時間の流れが、いかに静寂で退屈ーーいかに生産性がないか。この点のみ。

 そういえば、だ。

 ぼくは、1日あたり2万円かかる個室に入院している。正直、個室のメリットは特にない。

 高いだけ。こんなくだらないことを考えている。というか、くだらない料金制度について考える。ベッドの差額?最初からなくていいと思う。

 弱っている時に、快適な空間を求めるのかーーすくなくともぼくの答は違う。安心できる療養を求める。

 飛躍な例えかもしれない。病棟の個室は、刑務所の独房のように「言うことを聞けない人」が振り分けられるのでは。そのうちの一人なのでは、とうがって考えてしまう。

 くだらない。
 話を変えよう。

 そうだ。

 どうせなら、元を取るために、ナースコールを1日2万回鳴らしてみようか。そうしたらどうなるか、想像でもしてみようか。行動に移しやしない、単なるたわ言だ。

 ぼく自身の行為に、生産性も計画性も、なんらないのだから。

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