破滅的な美しさ
空が急に翳った…目に見えない世界が一変する
光る波が踊っていた水面は不気味に静まり松葉を揺るがせる
灰色の鳥が潅木の茂みから飛び立ち
どこかで魚が跳ねる水音がした
雨が来るのだろうか…
私は野良犬のように鼻をくんくんさせた…
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私の人生でどの部分が青春と言われるものの始まりなのかはわからない
わかるのは青春が終わったと感じ取った一瞬だけだ
それ以後の方が映画や本の中の人物に激しく魅了されるようになったとは何とも不思議なことである
子供時代のヒーローはたくさんいても青春時代の輝くヒーローなんか私には存在しない。ほとんどが負のヒーローだった…
1960年代後半から70年代、私たちはあてもなく街をうろついていた
16〜19歳の新宿…
私を弟のように可愛がってくれた憧れの女性JUNに連れて行ってもらった寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」の舞台
地下道に住み着いていた浮浪者の健さんらとコップ酒を交わし
西口1丁目の地下酒場「太田道灌」ではアングラ劇団の人たちに囲まれ
当時の若者文化の聖地、作家や哲学者やアーティストなどの若き才能の坩堝といわれた「風月堂」、漫画家を目指す若者の巣窟「コボタン」に入り浸り
新宿3丁目の花園神社に仮設された天井桟敷の舞台にハマった
そして71年5月…
映画「書を捨てよ町へ出よう」のスクリーンに現れた北村英名(佐々木英明)は
「映画館の暗闇の中でそうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ…」
と、私を無造作に街へと連れ出した
私は夏は母の赤い花柄の長襦袢を
冬は英明の姿を真似て親父のコートを素肌に羽織り街を闊歩した
そうなのだ…当時のカオスな新宿は…
恐らく私の核となる部分をつくりあげたに違いない…
金はないのに時間だけは果てしなくあるような気がして
行動を伴い得ない言葉遊びが流行っていた
それは互いを「評価」し合うことであったり
一元論や二元論的乱暴さで傷つけ合うことでもあった
既存の価値を覆すことだけが優れていると考えたり…と
安穏と生きる自分を否定するのが良しとされたりすることでもあった
正しい側面もないではなかったが若く臆病で過敏な私たちにはひどく残酷だった…
自由を考えるあまりに自分の魂を縛り精神を病んだ者もいたし
友人関係を損ない大学や会社、社会から逃げ出した者も大勢いた
決して脆弱でも怯懦でもなかったのにゆっくりと考えられるべきことどもが
あまりにも野蛮なやり方で掬い取られようとしていたからだった
その掌からいろんなものがこぼれ落ちたはずだが
何がこぼれ落ちたのかを見極めることは
まだ若すぎてうまくできなかった…
だから景色が流れて像を結ばないようにと常にアクセルを踏み続けていた…
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70年代中頃パリの小さな劇場でサム・ペキンパーの「ガルシアの首」を観た。
フランス語のセリフが全くわからなかったのだがウォーレン・オーツの姿に妙な衝撃を覚えた…
メキシコの安酒場にいる観光客相手のしがない中年のピアノ弾きベニー
毎日プライドを小出しにしに売って暮らす
見るからに安物と知れるジャケットとネクタイ
二日酔いの酒の臭いがいつでも淀んでいるような惨めな住まい
同じ酒場で働くメキシコ人の恋人がいるが、女もすでに若くない
そこに思いがけず金儲けの話が舞い込んでくる
ガルシアという男の首を獲れば大金がもらえるというのである
ベニーはガルシアがすでに死んでいるという情報を得て、墓に首を取りに行く決心をする…
あるシーンが忘れられられない…
ベニーは恋人エリータとささやかなピクニックに行くと
白人の二人組に襲われてエリータが強姦される
殺されるよりは…とあきらめて見交わす目と目…
ベニーの恋人へ向けられる目は優しく悲しい
眼前で愛する女を犯される屈辱と、自分と同類の女への愛…
そして少しでも二人の生活をただ単にましにしたいと願う男のかなわぬ想いが見え隠れしていた…
やがてエリータは無惨に殺され…
ベニーは我慢に我慢を重ねていた怒りを爆発させていく
負の立場にある者の土壇場での一発勝負
それが敗北とわかっていても、ベニーは勝負に出て行く
希望そのものを失い、代わりに自分自身を得たからだ…
私は映画を観終わってからもずっとベニーのことを考えていた
もしかすると、10代から感じていた掌からこぼれ落ちてるものはこれだったのかと思った…
それは後々…90年代初頭の「欲望の翼」や「恋する惑星」を観た後に体を突き抜けた瞬間も同類だった
ベニーも私にとって負のヒーローであり、限りなく強い負なのだ…
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そうだ私はまだ止まってはいけないのだ
16歳の時のざわつきに身を委ねたあの感覚を忘れてはいけないのだ
穏やかっぽい風潮に身を任せるな
老いても怒りを燃やせ。笑
破滅的な美しさはまだそこにある…
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