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タスマニアの森深くにある廃墟で一人暮らした話

 タスマニアにいたころ、人里離れた森にひっそりと佇むあばら家で暮らしていたことがある。当時僕は車で三十分ほど離れた村で固定種の種を商いする小さな店の手伝いをしていて、滞在の間宿としてあてがわれたのがその小屋だった。八十年代製のトヨタのセダンを貸してもらい、乗ったことがなくクラッチの仕組みも分からないマニュアル車を手探りで運転し、山道を店に通い種の選定や包装をするのが僕の日課だった。

 小屋は何年もの間人が住んでおらず荒れ放題だった。壁木はところどころ朽ちており、崩れた窓枠には一昔前に役目を終えたであろう空の蜂の巣がかかっていた。まずはこの廃墟同然の家を日常生活が送れる程度に整えなければいけない。棚にはおとぎ話の魔女の家よろしく得体の知れない茸や植物を漬けた古い瓶がたくさん並んでいる。乾ききったネズミの死骸や糞を片付けたり、かまどの埃を払ったりしてなんとか住めるぐらいにするのにも丸二日かかった。タスマニアは南極に近く、森の気温は夜になると夏でも摂氏一桁ぐらいになる。隙間風のあまりの寒さに家の中にテントを張ってその中で寝た。朝はどこからともなくやってくる鶏の声で目覚めた。

 食料や日用品を調達するための商店に行くには最低でも車を一時間は走らせなければならない。当然電気もないので暖は全てかまどと兼用の薪ストーブでとった。仕事を終え昼過ぎに帰宅すると猫車を押して坂を上ったところにある古い薪の備蓄を取りに行く。起伏のある山道で慣れないうちは薪が山積みになった猫車を何度も倒した。ニ、三回往復して集めた薪を今度は斧で割っていく。そうしてやっと二日分かそこらの薪が得られる。

 その森には僕のほか全然人気が無かった。夜になると庭にやってくるワラビーや鳥たちの他に訪れるものといえば風と雨ぐらいだった。夕食を済ませたあとは蝋燭の灯りで本を読む。不思議と寂しさや怖さはあまり感じなかった。感じたとてそれを訴えるための人も周りにはいない。電話しようにも携帯の電波も届かない。まるで自分だけが世界から切り離されたかのような暮らしで僕は孤独の味を知った。

 そうやって過ごしているうちに薪の備蓄が切れた。しばらくは森の枯木を拾って足しにしていたが、朝昼晩の炊事と密閉性の全くない家の暖房ではすぐに足りなくなってくる。ヒマラヤには修行の一環として一切火を使わないで生活する行者もいるらしいが、もともとひ弱で精神も頑健とは言えない僕だ、一人過ごす夜の寒さと暗さにだんだんと心細くなっていったのか、ある日魔が差して村の道端に集められていた原木を、もしかしたら人のものかもしれない、と思いつつもこっそり持ち出してしまった。
 その様子は種屋の主人にしっかり見られていて、「お前は泥棒だ」とこっぴどく叱られた。情けなくて、恥ずかしくて、涙が出た。主人はピーターといって、もう七十にもなろうという歳だったが、ずんぐりとしたドワーフのような体格で力も足腰も強かった。山の人らしく怒るときは厳しかったが、僕が本当に後悔しているのを見て許してくれた(木は元の場所に戻した)。男やもめで、何年もの月日を山で過ごしたのが伝わる、豆がいくつも重なってできたような太い手指をしていた。



 小屋から歩いて山をニ十分ばかり上ると、丘を切り開いたところに一軒だけ詩人の住む家があった。彼はピーターの友人で、森に住む僕の唯一の隣人だった。一度だけその家を訪ねたことがある。中は吹き抜けになっていて、二階には南向きに大きく丸い窓が切ってあった。その詩人は名前も忘れてしまったが痩せぎすの長身な男で、肩までウェーブのかかった長髪を垂らし、優しい、ゆっくりとした口調で話した。彼はどうして星に明るいものと暗いものとがあるか、なぜオーストラリアに住む動物がみな袋の中で子育てをするのか、そしてアボリジニの神話にある虹色の蛇が見る夢について自作した詩を詠んでくれた。

 その夜、ピーターとはもう少し実際的な話をした。1900年代初頭、日本の人口は約4000万で、食料自給率はほぼ100%だった。今では1億2000万人いて自給率は30%を下っている。もし何らかの事情でエネルギー危機が起こり食糧の流通が途絶えると70%近くが生きていけなくなる。人間に必要なのはまず第一に空気、第二に水、第三に食べ物、第四に体温を維持するための家などの設備である。空気は今のところタダだが食べ物や家はもちろん、水もほとんどの人がお金を払って得ている、といった話や、風力発電や水力発電といった自然エネルギーも、そもそもその施設を建てるために莫大な量のコンクリートが必要だったりして多くのエネルギーを消費することを考えればそんなに効率的とはいえない、というような話だった。

 ピーターは瞑想家で、かつてはタスマニアのヴィパッサナ(仏教の瞑想法の一つ)グループの主催もしていたらしい。瞑想していたら一度だけ小鳥がやって来て肩に止まったのだということを嬉しそうに語ってくれたのをよく覚えている。今はどうしているだろうか。

ふと思い出した、旅と学びの話。

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