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チェンマイの古寺で陰翳礼讃 —ワット・プラシンの礼拝堂—

 漆器の蒔絵や金屏風に言寄せて、黄金は闇の中で弱々しく光る時にこそ本来の美しさを発揮する、そう言ったのは谷崎潤一郎だったが、寺院の立ち並ぶチェンマイの街を夜巡り歩いていると、改めてそのことがよく了解されるのだった。

 秀吉の黄金の茶室や、金閣寺の派手な色を面白いと思えないのと同じように、東南アジアでよく見かける金一色に塗った仏舎利塔や、金箔で覆った仏像を美しいと感じたことはついぞなかった。

 むしろ行楽地などでよく見かける、けばけばしい色彩によって脳を刺激し、人間の視覚が本来持っている繊細な機能を麻痺させるイルミネーションのように、
その輝きによって人目をくらまし、盲目的な信仰を煽る、宗教におけるポピュリズムの象徴のように捉えていた。

 チェンマイの寺院の多くは、13世紀から18世紀にかけてタイ北部に君臨したランナー王国の建築様式によって建てられている。細かい特徴は多岐に渡るようだが、私にとって何より好もしかったのは、奈良のお寺に通じるような、木の色がその佇まいににじむ、質朴な味わいである。


 写真はワット・プラシンという、チェンマイでも最も格式が高いと言われている古寺の礼拝堂だ。

 こうして見てみると、金の装飾が全体を覆いつくさんばかりであるが、それでもどこか優美で落ち着いた印象を持たせるのは、一つに植物らしき文様を精細に刻んだ彫刻のおかげではないかと思う。

 特に日が西の方に傾くと、浮き彫りに生まれる陰影が深くなって、地の木の色との諧調が一層やさしくなる。

 最後の光が地平線に消えようとする時、ほのかに紫色を帯びた宵闇の中にぼうっと浮かぶその姿には、この世のものでないような貴い美しさがあった。

 さすがに観光の一等地なのでライトアップこそされていたが、電気という便利で残酷な文明に、
夜が薄められてしまう前の往時を想像してみたい。

 闇の中、僧侶や参拝者の灯明に照らされて、弱々しい光をあたりに投げかけながら立つ礼拝堂の、沈痛なまでの美しさ。

 こういう景色に出会うたび、私の旅は、今を生きているようで、実は常に在りし世の面影を追いかけているのではないかと思わされる。

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