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築100年の京町屋で暮らしたこと

昭和の終わり、京都の洛中にある町屋に生まれた。
大正生まれの祖母がお嫁に来たときからあるらしく
100年くらいはたっている 古い家。

むかし京都の中心の四条烏丸あたりに住んでいた先祖が、たくさん持っていた資産と土地を戦争でほとんど失い、唯一残ったこの家に引っ越した、らしい。ここだって悪くはない、二条駅や三条商店街へは歩いてすぐだ。

祖父と祖母は傘を作って全国に売った。繁盛したようで、近所の人が当時珍しかったテレビを見るためにうちに集まったという伝説が残っている。私が生まれた頃は祖父は他界し、お店ももうたたんでおり、ごく普通の民家だったが、傘を作ったナイロンの生地が大量にあったことを覚えている。

間口が狭く、奥行きの深い京町屋を「うなぎの寝床」と呼ぶ。玄関を開けると通路がまっすぐ奥へと続く。その一番奥を大裏とよんだ。
夏は開け放った玄関から入る風がのれんを揺らし、坪庭へ通る。
冬はその通路上にある台所に、石油ストーブを置き、白い息を吐きながら料理をする。

台所で料理をする母
天井まで吹き抜けで天窓からは光が射し込む

台所を通り抜け、扉を開けて庭に出ると、洗面台、木の扉の男子トイレ、女子トイレ、お風呂場、洗濯機、奉公人が暮らしていた12畳ほどの小屋がある。そう、洗面台もトイレもお風呂も外だ。

庭にある大きな沈丁花に雪が積もった朝、凍えながら顔を洗う。居間で服を脱ぎ、バスタオル一枚で通路を駆け抜けてお風呂に入る。湯上りは、タオルを巻いたまま空から降る雪や星空を眺めて涼む。夜中にトイレに行くのが怖くて、何度祖母を起こしただろう。

祖母なしにこの家のことは語れない。

親戚が集まるクリスマスパーティー、誕生日会、お盆、年末の餅つき、正月、ひな祭りに端午の節句のおはぎ作り。季節、伝統、行事が当たり前に側にあった。

大きな桶で御赤飯やちらし寿司を作り、うちわで、乾かすのは子供の役目。初夏は庭に梅干しが干してある。大きな樽のぬか床、季節のフルーツを使った菓子や毎朝のパン、服やセーターから石鹸まで祖母は何でも作る。パート先で畑を借りて野菜も作っていた。

おまけに自宅で書道教室を開き、洋服のお直し屋もしていたから、頻繁に来客があった。庭の物置小屋には大きな足踏みミシンとロックミシンが数台あり、高校生の頃はそれを借りて友達と一緒に服作りに熱中した。

祖母は水泳も全国大会に出たほどで、旅行好き。ハワイやタイなど海外にもよく行っていた。私は祖母から海外や戦争の話を聞くのが好きだった。爆撃機に攻撃され走って逃げたことを楽しそうに話すので、まるで映画のヒーローに思えた。

幼いころ母は働いていたので、私は祖母に育てられたも同然で、母は姑に娘を取られたと本気でショックを受けたらしいが、子育て初心者の若い母より、知識と経験が豊富な祖母に育てられてよかったと、時々思う。

祖母はよく本を読めといった。しかも「吾妻鏡」や「方丈記」という古典で、15歳になれば裁縫学校に行けと言う。古風すぎて思春期の私は馬鹿にしていたが、行っておいてもよかった。ちなみに「方丈記」は祖母の亡くなったあとに読んだ。

ようするに祖母は、夫を亡くした孤独で寂しい老人ではなく、旅行や仕事など自分のやりたいことをずっとやり続け、孫の世話までしてしまう、活発な女性であった。寂しがっていないと言ったが、毎朝早朝の掃除を済ませたあと、仏壇に向かいお経を唱えていたから、祖父のことは毎日想っていたのだろう。

80代半ばでガンとわかった時も「命を伸ばすことはしたくない」と全ての治療と手術を拒み、自室のベッドで家族と親戚に看取られ眠りについた。治療をしてないからか、やせ細ることもなく、最後は苦しまずとても穏やかだった。理想の死に方だと思った。今になって祖母の生き方を想うと、勇気をもらえる。

この古家は20年前に建て替え、今はもうない。当時はリノベーションの発想はなく、リフォームや建て替えが主流だった。だから、残っているのは写真と思い出だけ。

住んでいた頃は不便で古くて苦労したが、いまだに夢を見る。ドアも鍵もなければプライベートもないが、引きこもりもない。遊び部屋でファミコンをしたりピアノを弾いていると、誰かくる。開け放った玄関から友達が入ってきて、気づけば隣にいるようなこともあった。

居間でゲームをする弟

壁で仕切ることも、分厚い扉で締め出すこともしないから、どこに行くにも誰かと会いコミュニケーションの機会を生んだ。だから私の友達もすぐに家族と顔見知りになった。泥棒は入ったことはないが、野良猫が迷い込み、吹き抜けの台所の壁を天井までよじ登り換気扇から出ていったことはある。

文句を言いに来た近所のおばさん、苦手な人や、今は誰とも会いたくないという時でも、開け放った玄関から「すいませーん」と勝手にずかずか入ってきて、声も2階まで筒抜ける。誰でも受け入れてしまうから、孤独になんてなりようがない。

そんなふうに設計されていたのかと、昔の日本家屋の配慮と寛容さに気づく。小綺麗に改装された京町屋風のカフェやレストランに行ったってわからない。生活があってこその家だ。家は人に影響を及ぼし、人格も形成する。建て替えた新しい家は家族の理想を詰め込んで設計したはずが、先人の知恵を受け継いだあの古家にはかなわない。壁で仕切り、個室に閉じこもり、声も聞こえない、誰がどこで何をしているかわからなくなり、家族も少しづつ変わっていった。

あの古家で暮らした日々はとても楽しく、まさに夢のようだった。みんながいた。みんなが集まり、遊びケンカし、泣いたり笑ったり。
誰にでも1つくらいはあると思う、帰りたくても帰れない場所。私にとってのそれはまさにここで、子供の頃をあの古家で過ごせたことを幸せに思う。あの家とともに生きた祖母のことも必然的に思い出すので、せめてここに書き留めておこうと思った。

台所で撮った家族の写真



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