論理哲学論考χ(未完?)

論理哲学論考χ

序(本当の序)
 ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考が、明らかな誤りを含んでいるにもかかわらず、圧倒的魅力を感じるのはなぜか。私は、この徹底された無時間的事実の意味論的記述というスタイルそのものがその魅力の正体であると直観し、このスタイルを真似て、私の論理哲学論考を書いてみることにした。古来より言われているように、学ぶは真似ぶである。この手法は一般化できると思われる。聖書でさえ、真似たものを書くことは聖書の理解を大幅に助けるだろう。いずれ試してみたいと思っている。さて、括弧書きで「本当の序」としたが、その心は、開会宣言ということである。つまり、これから書くにあたって、という意味で本当の序とした。しかし、これは実は嘘である。この序を書いている現時点で、本文はすでに2000字ほど書いているからだ。だから厳密には、「序(フライングスタートして途中で気づいて慌てて書いた序)」とでもなろう。まぁ、何も書いていない状態よりも、少し書いてからの方が内容のあることが書けるだろうから、これでよいのではないかと思うが、「本当」とわざわざ断っておいて実際は嘘であるということを隠蔽するのは真っ赤な嘘になってしまうので、こうして長々と弁解を付す必要があったわけである。さて、内容の話に移ろう。これは今説明したような意味での本当の序であるから、内容の概括などできるはずもない。実際、完成させることができるのかも分からない。だが、ヴィトゲンシュタインの誤りと不備の少なくとも一部を訂正・改善するつもりではある。具体的にいえば、表象や記憶に関する認知科学的知見を取り込んで、哲学的に吟味することで、より精緻なものとしようということである。そもそも私は自分の不勉強さを棚上げすることになるが、各分野の学者たちの、他分野に関する不勉強さにうんざりしている。要するに、もしニーチェが数学を極めていたら、とかいうことを妄想してしまうのである。私は人間の限界に挑戦したいと思っている。専門に特化する天才ではなく、総合力を限界まで極めてみたい。とはいえ、これはあくまで論理哲学論考というスタイルをとっている。そのため、たとえば「脳」とか「神経」というような用語は極力避けたいところである。定量的な話が混入してしまい、数学なしではどうにもならなくなってしまうからである。そうなったら、もはや論理哲学論考ではなく、数理哲学論考になってしまうだろう。そして私の数学力では数理哲学論考を完成させるには相当の年月を費やすことになってしまうだろう。したがって、脳や神経などの用語を用いなければならなくなったときは、なるべく意味論的に用いる工夫をする必要があるだろう。つまり、それらの用語の論理的な役割を解明するという仕事が新たに加わるわけである。最後に、今後何度改訂を重ねようとも決して変わらないであろうひとつの命題、つまり本論文の主張の中心となるものを提示しておこう。
 言語そのものを創り変える操作が思考である。

序(実は結論)



 もともと与えられているはずのすべてを指して情報という。
 情報は加工されておらず、秩序もなく、混沌である。
 (情報はすべて保管されていると仮定する。)
 保管されている情報が記憶である。
 エピソード記憶と呼ばれているものは、今定義した生データとしての記憶をともなった想起のことである。ある特定の性質(エピソード性)をもつ想起が可能であるため、その性質をもつ記憶が存在していると推論された結果、エピソード記憶なるものがあるという考え方に至ったものと思われるが、ここでは、記憶はあくまで一切の加工を受けずに保管された情報のことであるとする。
 記憶あるいは情報から記憶への自動化されたアクセスの総体が言語である。
 記憶や情報は集合ではない。したがって、アクセスはいわゆる集合論で定義される写像とは似ているが別物である。また、このアクセスの総体である言語も集合ではなく、機能である。
 機能は要素機能に分解されうる。たとえば言語機能は、アクセスによって可能となる数々のことを機能として含むといえる。たとえば、意図を伝えること。
 しかし、集合が要素を含むというときの含むとは意味が異なる。なぜなら、要素機能もまた機能である。つまり、分解が終わる保証はなく、常に分解の可能性が残る。つまり要素機能は厳密には要素ではない。たとえば、意図を伝えるという機能は、争いを生じさせるという機能を含む。
 このように機能が集合でないのは、機能が現実的な要因だからである。つまり、現実というものがなければ明らかに存在しないものである。
 現実とは、生きているということであり、絶えず情報と接していることである。
 言語により、記憶と情報が整理され、秩序が与えられる。
 情報の源泉が宇宙である。
 宇宙は実在しないが、存在する。
 言語は内部表象されている。
 内部表象とは、言語の成果として可能なものすべての表象のことである。
 言語そのものは「こと」であるが、言語という「こと」は、「こと」を「もの」へと変化させる。言語がなければ、「こと」しかなかったわけであるが、そもそも言語がなければ、「『こと』しかなかった」という把握さえもできない。
 一見して「こと」の実態を言葉で記述することは不可能であるように思われる。「こと」の本質とは、「もの」化つまり概念化できない、したがって言葉でとらえることができないということなのだから。だが、「こと」について語ったすべての記述が無意味であるかと問われれば、少なくとも直観的には答えはノーである。
 それは恐らく、次のような理由による。まず、言葉は書かれたり話されたり読まれたり聞かれたりすることによって初めて現実に作用する。したがって、記述が有意味であるか無意味であるかを考える際には、記述を実際に読む場面を想定しなければならない。つまり、読むことを通して目的の事柄が伝われば、それは有意味なのである。それはつまり、「こと」が「もの」化されたとはいえ、やはりそれは「こと」であり続けるということである。
 表象は心理的な存在物であり、物理的実体に還元できない。
 このような表象というものを考えないと、以降の部分で説明したい計算というものが定義できず、思考と計算の関係を明確にすることができない。
 内部表象のうち、真理値を割り振ることのできるものを命題という。
 真理値は真偽の2値ではなく、量をもつ。つまり、どれくらい確かか、という判断ができる(ために真理値が内在しているように見えるような)内部表象が命題である。
 真理値自体も内部表象である。
 「1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した」と、「1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した、は真である」という像をともなう内部表象はともに命題である。
 命題という見方を導入することで、内部表象が命題以外を含んでいるということが明らかになる。
 内部表象の状態として顕在と潜在の2値がある。
 論理と同様に内部表象そのものを我々は自覚することができないので、顕在であるというのは意識できるという意味ではない。
 顕在内部表象は言葉またはイメージによる像をともなうことがある。
 具体的な言葉以外による内部表象の像がイメージである。
 要するに、内部表象とは概念のことである。
 概念の像を生じさせることで概念そのものを感じることはできない。像を生じさせたり、使用してみたりすることでその存在が示されるのみである。
 とはいえ、概念は存在する。
 イデア界とは概念の潜在している領域のことである。したがって、イデア界は人によって内容が異なる。
 とはいえ、イデア界は存在する。
 顕在内部表象は統合されている。
 潜在内部表象が顕在化すると、ただちに顕在内部表象がそれをとりこんで新たなひとつの表象となる。
 情報から潜在内部表象が顕在化されるのが入力である。
 情報が言語によって加工されることで内部表象の顕在化が起こる。この過程が入力である。
 生きていて情報があり、言語が働いている間は、常に入力が起こっており、顕在内部表象がなくなることはない。
 顕在内部表象から別の潜在内部表象を顕在化させるのが計算である。
 たとえば、典型的に計算と呼ばれるようなもの、つまり、1 + 1 = 2のようなものは、1 + 1という表記によって内部表象が顕在化し、そこから別の2という内部表象を新たに顕在化させているのである。新たに加わった内部表象は即座に統合され、1 + 1 = 2という内部表象となる。
 1 + 1 = 3は計算であるか? 計算である。なぜなら、1 + 1という顕在内部表象から3という潜在内部表象が顕在化されるという風に、計算の図式に当てはまるからである。ただし、つまり、計算結果が正しいかどうかは、それが計算であるかには全く影響しない。
 ヴィトゲンシュタインが思考(Gedanke)としたのは、入力あるいは計算の結果顕在化された命題の像のことである。したがって、少なくとも計算の働きのうち、命題でない内部表象については見落とされていることになる。像がイメージであるような内部表象については原理的に記述不可能であるため、像が言葉であるような内部表象を例にとれば、たとえば「丸い三角形は美しい」という像が見落とされていることになる。というより、ヴィトゲンシュタインはこのような像を無意味だとして排除している。だが、少なくともこの像は無意味であるという意味を確かに持っている。第一、このように考えないと、比喩表現一般が見落とされることになる。そもそも像が現時点でつくれないような内部表象についても、顕在化はされるし、計算の対象ともなると考える。それは喩えるならば、バグも処理の対象となるということである。そうだ、顕在内部表象のうち、像を(たまたまつくらなかったのではなく)つくれないようなものを、バグと呼ぶことにしよう。
 バグが計算の対象になると考えることで、睡眠の本質的役割を説明することができる。すなわち、バグを取り除くこと。人間が睡眠しないと発狂してしまうのは、バグが蓄積されるからであると考える。覚醒時もバグを取り除く機能は働いているが、睡眠中にはそれが強くなる。
 言葉による像がつくれない内部表象がある。つまり、イメージによる像しか存在しないような内部表象がある。
 この事実が、いわゆる「言いたいことがうまく言葉にならない」の多くの場合を説明する。
 言語そのものを創り変える操作が思考である。
 ヴィトゲンシュタインの最大のミスは、思考を考慮に入れなかったことである。計算と思考の決定的な違いは、創造性の有無、つまり、未知の可能性の有無である。計算には未知の可能性はない。語り得ぬものについては沈黙しなければならないのも無理はなかろう。
 創造性がなければ、神経ネットワークは強化されるだけだが、創造性があれば、神経ネットワークが新たに増設される。
 思考によって精神が成長するとともに、語り得るものが拡張される。
 思考によってできるものは新たな言語そのものである。 
 思考が進めば進むほど言語は変容していく。
 文章を読むときは、通常は入力が主でわずかの計算が行われるのみであると思われる。思考までする人は稀である。
 また、文章中に思考過程が直接表現されることはなく、間接的に示されるのみである。つまり思考は記述を拒絶する。
 したがって、思考の進んだ偉大な精神の書いた文章は通常は理解されないし、もし理解しようと思ったら、思考する、すなわち、自らの言語そのものを創り変える必要がある。
 私は言語をマスターすることを欲する。


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