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【小説】かりもの 1

<あらすじ>
 僕、田中太一の彼女(遠藤里奈)は、しょっちゅう体を刻む。しかも最近、違和感のある言動が気になりだして……。じきに彼女の行動はエスカレートしていき、僕の精神も極限に達していく。

<本文>
 ドアを開けると、遠藤里奈は自分の手を見て恍惚とした表情を浮かべていた。手からは血が流れ白いワンピースに不穏を広げている。僕は、深呼吸をして彼女に駆け寄った。
「見つかっちゃったあ」
 彼女は慣れた手つきで止血すると、近くに用意していた包帯を手に取った。
「今日はちょっと深くやり過ぎたみたい」
 里奈が自傷したのは、僕が知る限り今月で3回目だ。
 確実に増えている。しかし彼女は朝食のスクランブルエッグを作るみたいに、左腕に包帯を巻いていく。
「かして」
 包帯を巻くのを手伝おうとすると、彼女は首を横に振った。
「合鍵も考えものね。プライベートもあったもんじゃない」
 あっという間に、包帯は巻かれ長袖で見えなくなった。彼女は長年同じようなことを繰り返しているのか、どれくらい切れば、止血しやすいか心得ているようだった。
 自傷のプロフェッショナル、なんて言葉が脳に浮かんだが、口にださなかった。そんな哀しいプロフェショナルはいらない。
「どうしてこんなことしたの」
「今日、代官山で美味しそうなお茶買ってきたの。飲む?」
 彼女は露骨に話しをそらした。返事をしないうちにお湯を沸かしだす。
「刺すなら、僕を刺して」
 腕とナイフを差し出してみせる。
 彼女はキッと僕をにらむと、無言で腕にナイフを這わせた。血が押しあがってくる。
「ぞくぞくするでしょう?」
 血を見た途端、意識が遠くなっていった。

 目が覚めると、里奈はくすくす笑っていた。僕の手には包帯が巻かれている。自分の手なのに、かりものみたいだ。
「太一は、今日も仕事だって言ってなかった?」
 彼女はさきほど、僕の体に傷をつけたことなんて少しも気にしていない様子で言った。
「あ、そうだよ! 雨が降ったから仕事延期になってさ。これ買ってきてたんだった」
 玄関に置きざりにされた紙袋をみせる。自由が丘にあるスイーツ店パティスリー・パリセヴェイユのロゴの入った紙袋を掲げると、いつもの笑顔を見せた。彼女はここのケーキが大好きなのだ。彼女は笑うと頬にえくぼができる。その絶妙な凹みが愛らしい。ずっとそれを見ていたいのに、彼女は何かというと腕や太ももに溝をつけたがる。
「お茶とケーキ、合うかな」
「きっと、合うわ」
 先程まで血を眺めてうっとりしていた彼女は、すっかり消えていた。
 僕の買ってきた彩り鮮やかなケーキと緑茶は、案外合うものだった。何よりも僕にとって、彼女がけらけらと笑っているのが、最高のスイーツなんだ。
「私はね」
 と突然いうと、彼女はまくし立てるように話しだした。
「来年には会社を辞めてフリーランスでマーケターをやろうと思うのよ。今はウィットな感受性さえあれば、仕事はどこでもできる時代だから」
 ウィットな感受性とは何だと思ったけれど、彼女の目がギンギンに開いて興奮している様子だから、とりあえず「フリーランスのマーケターなんて、格好いいな」と言ったら、彼女の瞳がより大きくなった。
「格好いい? そうね。でもそれは、あくまでも動機であって、持久力にはつながらないの。やりたいからやる。それが上手くなれるコツなんじゃないかなって。太一はフォトグラファーでしょう。きっと興味があるから始めたんじゃないの。格好いいからだけじゃ続かない」
「そ、そうだね、格好いいだけじゃ続かない。で、何であんなことしたの」
 僕は彼女の包帯の巻かれた腕をつかんだ。華奢過ぎて、このまま切り刻んだらバイオリンを奏でる弓になってしまいそうだ。彼女はえくぼを埋めて、ため息をつく。
「……切ることに意味はないの」
「僕には理解できない」
「自分の中身って見えないじゃない? だからかな」
 僕は自分の中身を見たいと思ったことはなかったから、彼女の言っていることが、よく分からなかった。
「自分の中身を見ることって、大事なことなの」
「私にとっては」
「そのうち君は、自分の腕を生ハムみたいに削いでしまいそうでこわいよ」
「削いでも傷だらけで美味しくないし、もっと素敵なたとえはないの?」
 彼女はそう言うと、包帯の巻かれた左腕をさすってみせた。僕もその通りだと思った。彼女は腕は傷だらけだし、例えが上手いとは思えなかった。
 その後、彼女は饒舌にフリーランスのマーケターについて話し続けた。彼女が手を動かすたびに、コットンの内側にのさばる包帯がうっすら見える気がして、背中のあたりは落ち着かなくなり、あまり頭に入ってこない。
 その後、彼女と録画していたお笑い番組を観た。
「笑いのツボって、人それぞれ違うじゃない。それは人とのコミュニケーションの線引きになる気がしているの。だから私は必ずつき合った人とお笑い番組を観る。そうすると相手とどれくらい続くか予想できる」
「僕は合格ラインに達してた?」
「99点かな」
「あとの1点は」
 そういうと、彼女は桃色の唇をぽってりと突き出してきた。僕はそれに応えるように、唇を重ねる。柔らかい舌が僕の唇を割る。僕は華奢な彼女をお姫様だっこをしてベッドへ放り投げると、彼女はうれしそうにわらった。

 目を覚ますと、横で寝息がきこえた。僕はそっとベッドから出ると、数時間前に彼女が血を見ていた場所に腰をおろした。
 本が目についた。彼女の小さなバッグの上に置いてあった単行本。表紙には『フリーランス広報として心得』と書いてある。
 彼女がやりたいのは、フリーランスのマーケターといっていたし、彼女は現在ベンチャー企業のマーケティング担当として働いている。それなのに、フリーランスの広報の本を購入しているのが不思議に思えた。
 以前、何かの雑誌を見ているときに、ベンチャー企業の広報担当者の女性が、インタビューされていた記事があった。それを見た彼女が、
「広報は大体、顔採用。顔さえよくて、当たり前のことを当たり前にできる人なら、広報担当者になれるの。もちろん、バカにしているわけじゃないのよ。当たり前のことを当たり前にすることって、とても難しいことだから」
といっていた。だからそんな本を購入するなんて意外だった。 
 パラパラめくっていると、ある言葉に目が止まった。
 【ウィットな感受性さえあれば、仕事はどこでもできる時代です】【自分の中身は見えません。だからこそ知ろうとしなければいけないのです】
「なんだよ、これ……」
「太一?」
 里奈は起きたのか、けだるそうにいった。愛らしい目が、さらに小さくなる。彼女は僕が読んでいた本に気づくと、興味のなさそうな表情を浮かべて背を向けた。
「その本あまり面白くないから、あとでゴミ箱に出しておいて」
「え?」
「知っていることしか、書いてないの」
「……そっか」
 僕は忘れないように、自分のカバンの近くに置いておいた。午後から撮影が入っていたので、彼女とは午前中でわかれた。

 また腕を傷つけるのではと気が気では無かったが、ずっと一緒にいるわけにもいかない。自宅マンションに戻り、機材をとって現場へむかった。芸人さんが本を出したために取材となり、僕は撮影にかり出されたのだ。取材スタジオの片すみで、インタビューは行われた。そのためセッティングが終わった僕も話を聞くことができた。
 さすがに芸人さんの話は面白く、聞き入ってしまう。
「ですから僕は、仲良くなりたい人ができたら、まずは一緒にお笑い番組をみるのがいいと思うんですよ。あ、別に僕の漫才を見てと言っているわけではないですよ。……笑いのツボって人それぞれ違いますから、それは人とのコミュニケーションの線引きになると思うんですよ。それにですね……」
 芸人さんの言葉に、耳を疑った。予知夢でも見たのかというほど、芸人さんの言葉は里奈をシンクロしていた。もしかしてこの芸人さんと里奈の間に、以前何かあったのだろうか。

 ケータイで芸人の経歴を検索してみた。どうやら彼は神奈川県横浜市の出身で、高校を卒業後に都内のお笑い養成所に入ったそうだ。三十歳でブレイク。少々、遅咲きの芸人だ。
 現在は一発屋の星として、地方巡業をメインとして活動しているそうだ。これまで気にしたことはなかったが、派手なスーツ姿の彼はイケメンで掘りの深めの顔。里奈の好みだと感じた。
 ちなみに僕は、どちらかというとあっさりした顔をしている。途端に居心地の悪さを感じた。

 里奈とはじめて会ったのは、昨年、専門学校時代の友人と開催した写真展だ。百人目のお客さんとして現れたのが、里奈だった。彼女は、くすんだピンク色のトレーナーにロングスカートを合わせた、ラフな装いで現れた。彼女は僕の撮った写真を食い入るように見ていた。
 写真の被写体は、元カノだった。
 元カノは当時、広報の仕事をしていているOLだった。目が大きくて、今っぽい化粧がよく似合う顔立ちをした女性だった。仕事で彼女をはじめて見たとき、小学校のころ好きだったアイドルが目の前に現れたのかと思った。完全に一目惚れ。ガラにもなく猛プッシュして、半年後に付き合うことになった。元カノは男女問わずよくモテた。そんな彼女が、どうして僕を選んでくれたのかはわからない。だから必死だった。ずっとそばにいたくて、離したくなくて、結婚サイトをよく見るようになっていた。
 元カノは顔に似合わず男前な性格で、「私は結婚するなら、専業主夫がいいの」「これからは女性が稼ぐ時代よ」と、パンダみたいな愛らしい顔を揺らしながらいうような子だった。だけどそれは「僕とは結婚はできない。だってあなた、カメラマンを辞めて専業主夫になるなんて無理でしょう?」と最終宣告をされたようなものだ。もともとつき合った相手とは結婚を考えてしまう僕にとって、その言葉は別れ話だった。
 その後、元カノが自宅で料理教室を始めると言いだしてから、さらにすれ違うようになった。結局、振られた。それなのに、未練たらしく元カノの写真を展示会にだすなんて、我ながら格好悪い。でもこれも仕方ないのだ。別れて以来、さっぱりプライベートで写真が撮れなくなってしまった。だから宝物みたいな、元カノの写真を使うことにしたのだ。
 もちろん写真のモデルが元カノだなんて、一切写真展で触れてはいない。
「それ僕が撮った写真です。よかったら、これをどうぞ」
 来場者が九十人になった頃、友人と「何かしたいよな」と話して作ったカードを差し出すと、里奈は小さな目を見開きながら、その白いカードを受け取った。整えられた爪が、元カノを思わせた。
「これ、ラブレター?」
 思わぬ言葉に、吹き出してしまう。
「まあ、そんなものです。……無料撮影券です。友人か僕、どちらでもいいので指定していただければ、無料で写真をお撮りします」
「ぜひ、あなたが撮って。でも私、この写真みたいな場所がいい」
 元カノの写真を見ながらいった。それは駒沢公園で撮ったものだ。緑を小道具に、かくれんぼをしているように撮った。
 元カノの写真のおかげで僕と里奈は出会い、後日、駒沢公園で会うことになった。彼女は終始ごきげんで、僕をリードした。撮影が終わると、今度は彼女が「お礼におごってあげる」といって、レストランバーにいった。彼女は会計時、本当に自分で全額払おうとするから割り勘にしてもらったけれど……。
 そのとき里奈は、僕の財布についている薄汚れた鞠のキーホルダーを見て目を見開いていた。グッチの財布には似合わないけれど、小学校の頃からなぜか僕はこのキーホルダーがないと落ち着かないのだ。黒光りした牛革の財布に、薄汚れたキーホルダーが異様にうつったのだろうか。じっと見るから恥ずかしくなって隠してしまった。彼女は気まずそうに、うつむいた。
 結局、そのままホテルに行った。僕らはそうやって始まったのだ。だから彼女は過去に、横浜市に住む年上の芸人と仮に何らかの付き合いがあったとしても、僕はまだ知らない。
 芸人の撮影が終わりスタジオを出ると、月が顔をだしていた。その足で、駅へと向かう。
 里奈の家のドアを開けると、濃厚で祝福を感じる香りがした。
「何のにおい?」
「ビーフシチュー。圧力鍋で作ったから、きっとトロトロよ」
「ビーフシチューと、これは合うかな」 
 途中で買った、パティスリー・パリセヴェイユの紙袋を差し出した。
「ビーフシチューとケーキなんて、何かのお祝いみたいね」
 彼女は鼻歌を歌いながら、ケーキを冷蔵庫にしまう。
「もしかして僕が遊びに行くってLINEしたから、こんな豪勢なのを作ってくれたの」
「いつ来てもいいように、私は毎日ふたり分のご飯を作っている。だから会えないと冷蔵庫がタッパーでいっぱいになるの。でもそれは自分の意思でやっていることだから何の問題もないのよ」
 ふと元カノのことを思い出した。彼女も毎日、二人分を作って待っていてくれた。でも僕は仕事で忙しくて、毎日会いに行くことはできず、遊びに行くと冷蔵庫にタッパーがたくさんあるのに、毎回、新しい料理を提供してくれたっけ。
 あの食材は、どこに消えていったのだろうか。ゴミ箱とは思いたくない。
「そんなことしなくてもいいよ。僕はいつも来られるわけじゃないから、コンビニ飯でいいから。無理しないで」
「図々しい! 私は好きでやってるんです」
 あかんべえをする里奈を後ろから抱きしめた。
「腕はもう、痛くない?」
 うなずく里奈。
「良かったよ。準備、手伝うね」
 ビーフシチューは少々煮込み不足だったが、やさしい味がした。
 おかわりをすると里奈はうれしそうに、よそってくれる。
「大盛りだなあ」
 彼女が用意してくれたフランスパンにつけると、いかつかったパンが染みしみになり徐々に頼りなくなっていく。その変化していく様が、昨夜の里奈と重なった。本当に彼女は、また死にたくならないだろうか。里奈は僕の視線に気づくと、照れたように笑った。
「ねえ里奈は、どんな人とつき合ってきたの」
「元彼? いないよ。あなたがはじめて。小学校の頃は好きな人いたけど……」
「小学校なんて昔の話じゃなくてさ……。って噓でしょう? はじめてじゃないよね」
 だって処女じゃなかったじゃないか。
「本当。……昔から顔が不細工だっていじめられてじゃない?」
「はじめて聞いたし、君は不細工じゃない」
 彼女は素っ頓狂な声をあげて、僕に抱きついてきた。
「ありがとう、そう言ってくれたのは、太一だけ。みんな私のスタイルしか褒めてくれないの」
 たしかに彼女は華奢なのに胸が大きくて手足が長かった。
「芸能人とつき合ったりは?」
「何の話?」
「いえ、なんでもないよ」
 我ながら何を言っているんだと思った。彼女は誰ともつき合ったことはない、と言っていたじゃないか。それを信じるべきだ。処女でも出血しない人はいる。と思いながらも、あのホリの深い芸人に抱かれている里奈が脳裏のあちらこちらに映し出されるのだった。
「エッチしよう」
「シチューは」
「あとで」
 僕はそういうと彼女を抱き寄せて、耳に舌を入れた。彼女が体をくねらす。興奮した僕はいつになる乱暴に服を脱がせた。彼女のショーツが濡れていた。
「こういうの、好きなんだ」
 耳元で囁くと顔を赤らめた。彼女の小ぶりな顔立ちは男の征服欲を刺激するのかもしれない。ショーツを横にずらし、いきり立った衝動を突き刺した。
 彼女は小さく叫び、自分の手を噛んだ。手を払って、口に指を入れた。彼女の舌が指先を刺激する。ねっとりと。
「ねえ」
 里奈が苦しそうに何か言っているので、指を出し、唾液を乳首で拭いた。その都度、彼女は悶えるから、腰の振りを強くしてやる。
「くび、締めて」
「なに」
「太一に殺されたい」
 僕の手を首に添わせ、激しく腰を突き上げてくる。
「はやくう、締めて」
 僕は手に力を込めた。柔らかい感触。彼女の表情が歪んだ。

(つづく)
2話


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