夏の終わり、蜘蛛と蜘蛛。
夏野久万。それが私のペンネームだ。だから「なつのおわり」と打ったとたん切なくなった。
「ああ、夏野終わっちゃうのか」……と。
なんてつまらん話しはさておき、なつのおわりはいつだって懐かしい。
夏が好きなので、よけいに。なのに今年の夏は何にも感じなかった。
あの蜘蛛を見るまでは。
数年前。
ひとり暮らしをしていたアパートにやってきた、爪ほどの小さな蜘蛛。
天井から得意げに降りてきて私の前に現れた。
時には床を横断し、壁でかたまることもある。
殺生せずに、眺めていた。あんがい、かわいいのだ。
ほんとうは玄関でゴキブリを見つけたら、その近くにあったブーツを捨ててしまうくらい、虫が苦手(だってほら、私のブーツの中で寝てたかもしれないじゃない?)。
なのに大騒ぎせずにいられたのは、きっと千葉の別荘にいた蜘蛛を見慣れていたせいだろう。
千葉にいた蜘蛛は、広げた手のひらほど大きい。
私たちが別荘に到着すると、大抵、その姿を見せて出迎えてくれた。堂々と壁にくっつく様子はシンボリック。映画のキャラクターよりもずっと硬派に見えた。
よく玄関の右上にいたので、24時間365日安心安全な「防虫対策」になっていた気がする。
だから一人暮らしの家に、小さな蜘蛛が出た時は、ちょっと嬉しかった。分身を飛ばしてくれたのかな、と守られている気がした。
結婚をして賃貸マンションに移り住んだ。その後、中古の戸建てを購入するのだけど、その頃にはもう蜘蛛のことは忘れていた。もしかして出ていたのかもしれないが、子どもと絨毯とふにゃふにゃお菓子の関係性が破天荒すぎて、それどころではなかった。
その後いろいろあり、中古の戸建てを売り、二世帯住宅を造ることになった。新しい家は床から冷気が立ち上がり、寒さのあまり薄手のダウンとフリースを羽織るような真似はしなくていい。私は満足して、じょじょに昔を思い出さなくなっていた。
5年ほどたった今年の夏。
小さな蜘蛛が現れた。
意識が連鎖を起こし、粒子のあらい映像がふつりふつりとわいてきて、「ぼくを思い出してよ」「私もいるよ」 とたくさんの封印されていた情報が動き出した。
記憶は、千葉の家でとまった。
別荘に行っていた頃の母は、よく和室の座椅子で足をのばしていた。昼間はコーヒーを飲み、夜は顔をマッサージしながらテレビを観ていた。父は庭のトマトやスイカの手入れをし、うれしそうに駆け回る愛犬を呼びつけては、全身を撫でた。私は縁側からその様子を眺め、蚊と戦っては負けていたっけ。
しかし母が半身まひとなり、生活は一変した。
「くつろぎの和室」は、「一度座ったら自力では立てない不便な空間」となった。
父は悩み、あれほど大切にしていた別荘を売った。
毎年いっていた海水浴。小さな花火やバーベキュー。ぶどう棚にはたくさんのぶどうはならなかったけれど、いつだって父はぶどう棚にこだわって、あれやこれやとやっていた。
その顛末を静かに見守っていた、大きな蜘蛛。
今も千葉の家にいるだろうか。
新しい家主に殺虫剤を吹きかけられていたら、ちょっと祟る。
もう戻れない空間がまた増えてしまったなあ、としみじみ感じつつ。でもあの場所が私にとって特別だったと思い出させてくれたのは、今の家に現れた小さな蜘蛛のお陰だ。
ひとり暮らしをしていた時に、我が家に住んでいた小さな蜘蛛と同じとは思わない。だが見えない糸みたいなものが、私の心を過去に引き戻したのは事実だ。
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「夏の終わり」は、暦の上ではそれとなく決まっている。しかし体感的な「夏の終わり」は、人それぞれ違う。もっと情緒的で、ノスタルジックで、どうしようもなく儚い。
まあ、私にとってはだけれど。
それなのに今年は、夏らしいこともせず仕事ばかりしていた。夏の終わりの情緒的な部分が欠落して、季節感のない日々が流れていくだけ。
でも小さな蜘蛛が、また訪れたくて仕方なかった風景を見せてくれた。
小さな蜘蛛が現れてくれなかったら、あの空間を、実は相当好きだったことに気づかなかったかもしれない。
だから元気でいてくれるといい。
大きな蜘蛛と小さな蜘蛛。そしてあの家に住んでいる、見知らぬ住人さん。お父さんや私たちが大好きだったあの家、大事にしてね。
なんて夏の終わりと、小さな蜘蛛は、私をちょっとばかりセンチメンタルにさせてくれた。
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