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ドアを開けると、遠藤里奈は自分の手を見て恍惚とした表情を浮かべていた。手からは血が流れ白いワンピースに不穏を広げている。僕は、深呼吸をして彼女に駆け寄った。 「見つかっちゃったあ」 彼女は慣れた手つきで止血すると、近くに用意していた包帯を手に取った。 「今日はちょっと深くやり過ぎたみたい」 里奈が自傷したのは、僕が知る限り今月で3回目だ。 確実に増えている。しかし彼女は朝食のスクランブルエッグを作るみたいに、左腕に包帯を巻いていく。 「かして」 包帯を巻くのを手伝お
いちごが描かれたとびらに手をかけた。開かない。 これで、10のとびらに拒否されたこととなる。 赤地のドアには、あまだれ型の小窓がたくさんついている。のぞくと、薄紅色のなにかが揺れていた。それは輪郭すらつかめない砂漠の画であり、空気の痕跡のようだ。 私はあちら側にいきたい。 いちごは、やすらぎであり、毒を吐き、勇気をもらえる存在だ。なによりも、子どもの頃からの夢。私は、いちごになるために、ここまできたのだ。 だが、いちごのとびらは、私をたやすく受け入れては
ひと気はなかった。沈没した心に喰い込むように、波は揺れている。灯台は柔らかな光を放つけれど、こちらには届いてはくれない。あたり前だ、私は砂の上に佇んでいるのだから。 コウイチは高校一年生の中でも、背が高く大人びてみえた。でもよく見ると顎のラインや肩の細さが大人にはなりきれていない。 去年まで中学生だったのだから、仕方ない。その事実に気づく都度、恐ろしささえおぼえる。 未希ははじめてのクラス担任だったせいか、いつもアタフタしていた。そんな時、どこからかコウイチが
あいつムカつくよ。いっつもカンチョーしてくるんだぜ。 タケルは、ここさいきんずっとコウイチに「イヤガラセ」されてる。 だからきゅうに「のろいのいえ」をつくろう、といいだしたときはおどろいたけれど、なんとなく、なっとくした。 イヤガラセをしてくるコウイチに、ヘコタレてほしいっておもうキモチ、イタイほど、わかる……。 だって、きょねんはボクも、コウイチに「イヤガラセ」されてたクチだから。 クラスがえでべつべつにならなかったら、きっといまでもコウイチのひょうてきだったはずだ。
「陸はじつに美しいぞ。暖かい季節になると色が変わるんだ。ふわふわしたやさしい色彩になって、冬にはおおらかな雪がそれを覆い隠す」 口の尖った空の友人はそう言った。 「暖かくなると色が変わる? それは何の話?」 「花だよ。……今度、君のために花をとってきてあげよう」 すてき! 小さなエラで触ってみたい。本気でそう思った。 だけど空の友人はすぐに花を連れてきてはくれなかった。 嵐が近づくにつれて水面は濁りだす。息を吸うために、顔を出すのもひと苦労だ。 水かさが上がるにつ
不思議なことを言う老人に出逢った。シラミが人の頭皮に寄生して生きているように、人に寄生しないと生きられない人間もいるのだと。それは「ヒモ」と呼ばれるクズの話じゃない。物理的に寄生して体を蝕んでいくのじゃ、と目尻にシワを寄せるのだ。 ナツミトウフは震えた。そんなシラミ人間に寄生されては、ただでされスッカラカンなのに、今度は厚みさえ失われたら紙屑になっちまう。 だから、すでに寄生されている人の見分け方を教えてもらったからここに記しておく。 身体的に特徴はさほど変わ
蝶々結びのうまくできない男が好きだ。 トビウオみたいにまっすぐ結んだそれを、ピンピン跳ねさせ歩く姿。 シャブリつきたくなる。 だから本屋で見かけた、本をまっすぐ整える男に興味を抱くなんて、きっと満月のせいだとしか思えない。 どうしました、と声をかけてきたのは、彼のほうだった。 「死後の世界とか遺言とか、そんな本ばかり見ていたので」 と彼は付け加えた。 「夫がね、なかなか死んでくれなくて、夢を見にきたの」 近くにあった『夫の死後、妻がするべきこと』と書かれた
吹雪で木々の姿は見えない。ナツミは、感覚を失いかけている右足をさすった。隣りにいるノボルは、チラチラこちらの様子をうかがっているが、その顔はのっぺりとしてよく見えない。 「恋人のケンタさん……でしたっけ。彼のこと、考えているのですか」 「あたり前でしょう」 ケンタとクミと三人で登山にやってきたが、ナツミだけはぐれてしまった。数時間は彷徨っただろうか。この洞窟を見つけホッとしたところで、奥に居たノボルの存在に気づいたのだ。 「彼らはきっと生きていますよ」 焚火に身を寄
クリスマスの終わったサンタは暇なので、白くて長い髭を切った。たくさんの髭が集まって、大きな山ができた。 そこでサンタたちは友人のトナカイに、丸くて美しい玉を作り、鈴のかわりに首にかけてやった。多くのトナカイは喜び、夜空を駆け巡った。 「そんなに走ってはあぶないよ」 トナカイの耳には届かない。 年が明けた日本のある家では、孫が遊びに来て賑やかな正月を迎えていた。 年賀状を取ろうと外に出た婆やは「あらまあ」と空を見上げた。その声につられて爺やと孫のタツヤが顔を出してく
今日も隣りから大きな声がする。酔っぱらった男が同棲中の女に絡んでいるのだ。耳を塞ぐ。だが、下品で威圧的な声は止まらない。 「いい加減にしてくれ!」 たまらず壁を叩いた。とたんに静かになる。壁ドンで静かになるのは、はじめてのことだ。嬉しくてテレビをつけて寝転ぶ。これでゆっくりできる。 「あれ……?」 テレビ本体を確認するが異常はない。だが音量は50と出ているのに、聞こえないのだ。 目の前で手を叩いてみる。パンッと手の弾かれる音もしない。 「おおおおおい!」 やはり何も
沼に落ちて数時間が過ぎた。もう肩まで沈みつつある。 そこに漁師が通りかかった。漁師は釣糸を私に向かって投げてくれる。 「これで助かる!」 つかまると、釣糸が私を岸の方へいざなう。だがその糸はとても細く体重を支えきれそうにない。私は暴れた。漁師も沼に落ちた。 「これで五人目だ」 糸をたぐり寄せ、やっとの思いで漁師を近くまで引き寄せた。漁師は私に「すまなかった」と謝った。 「なにをおっしゃいますか、ありがたいことですよ」 私は5人目の体を踏み台にして、沼から外に出ることに成功した
終電近くまで仕事をして、やっと最寄り駅に着いたと思ったら雨が降ってきた。 ついてない。 今日は本当についてない。 朝、ハイヒールをマンホールの溝に突き刺して一本電車に乗り遅れるし、乗った電車で腐ったヨーグルトみたいなげっぷを嗅ぐ羽目にもなった。 会社で唯一の憩い「イケメン上司」は出張中。かわりにアヒルみたいな上司にコキ使われた。 文字打ち得意なんて誰も言っていないのに、アヒル隊長の書類まで作らせるなんて時代錯誤もいいところだ。 アヒル文字は私にはわかりません