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壁ドン。


 今日も隣りから大きな声がする。酔っぱらった男が同棲中の女に絡んでいるのだ。耳を塞ぐ。だが、下品で威圧的な声は止まらない。
「いい加減にしてくれ!」
 たまらず壁を叩いた。とたんに静かになる。壁ドンで静かになるのは、はじめてのことだ。嬉しくてテレビをつけて寝転ぶ。これでゆっくりできる。
「あれ……?」
 テレビ本体を確認するが異常はない。だが音量は50と出ているのに、聞こえないのだ。
 目の前で手を叩いてみる。パンッと手の弾かれる音もしない。
「おおおおおい!」
 やはり何もきこない。あらゆる音が消えている。
「もしかして……」
 ためしに壁ドンをしてみた。
「テレビうるせい!」
 隣人が騒いでいる。慌ててテレビの音量をさげる。再び壁ドン、静寂。壁ドン、音あり。
 どうやら壁ドンが音のスイッチになってしまったようだ。
「嘘だろ……」
 あらゆる場所を叩いてみた。机ドン、テレビドン、丼ドン。何の変化もない。あるのは隣りの部屋とを隔てる、薄汚れた壁だけ。
    
 だが翌日にはスイッチは増えていた。今度は玄関ドアドンだ。だからそっと扉を開けないと、大変なことになってしまう。僕はどうしたらいいかわからず、とりあえず大家さんに相談したら病院を紹介された。
 
 9月になると転職したばかりの会社で重要な任務を任されるようになり、僕は会社近くのマンションに引っ越した。今は壁ドンスイッチのない生活をしている。
 あの騒動は、なんだったのか。今の僕にもわからない。
 時々、瓶の中にいるような静寂が恋しくなるけれど。

 「春斗、懐かしいね」
 となりで笑う桜子とは、三年前の夏、ここ海の見える公園で出逢った。要はナンパだけど、運命の出会いだと思っている。
 彼女の視線の先には黒光りした船が佇んでいる。僕はここで今みたいに船を見上げる彼女に声をかけたのだ。
「桜子、これ」
 コートのポケットから白い箱を取り出してみせた。記念日でも無いのにどうしたの、と目を見開いて僕を見てくる。そういうワンテンポ遅いというか鈍感なところが桜子らしい。
「結婚しよう、返事は明日ききたい」
 明日は僕の誕生日だ。桜子が選んでくれた店で、ディナーを食べることになっている。
 彼女はポカンとして動かないので、無理やり指輪の入った箱を彼女のカバンに押し込んだ。
「行くよ! 映画がはじまっちゃう」
 彼女の手を引っ張り走りだした。
「ねえ、春斗くん」
 立ち止まり、彼女は僕の手をはなした。

 それからはスローモーションで時が流れていった。
 通りに出たとたん、暴走車が突っ込んできたのだ。
 とっさに僕は桜子を守ろうと腕をまわした。だが彼女の方がはやい。僕を車から守るように歩道側から抱きついてくる。車はそのまま僕たちに激突した。
 こうやって僕たちは車に轢かれた。桜子の身体で壁ドン状態になった瞬間、僕の音は消滅した。今までおさまっていたスイッチが戻ったのだ。
「桜子」
 朦朧とする意識のなか血まみれの桜子の頬に手をふれた。
「桜子、桜子、さくら!」
 薄っすらと目が開く。その瞳には安堵の色がみえた。彼女はなにかを言っているようだ。でもききとれない。音がきこえない。
「なに、桜子。どうしたの」
 壁ドンスイッチが音を消していて、聞こえない。僕は彼女の体にある壁ドンスイッチを探した。だが血まみれの彼女を乱暴に扱うわけにはいかない。桜子は僕を守ってくれたのだ。死なせる訳にはいかない。結婚して、彼女としあわせな家庭を築くのだ。子どもは5人欲しいと言っていた彼女の希望を叶えるのだ。
 桜子はカバンから転がり落ちた指輪に視線を一瞬向けて、僕に何かをささやいた。なに、桜子なに。
 彼女は笑っていた。
 結婚してくれるの。
 

 薄れゆく記憶のなか桜子は確かに微笑んだような気がした。

    

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