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恋と呼ぶには愛おしすぎる。

 ひと気はなかった。沈没した心に喰い込むように、波は揺れている。灯台は柔らかな光を放つけれど、こちらには届いてはくれない。あたり前だ、私は砂の上に佇んでいるのだから。

 コウイチは高校一年生の中でも、背が高く大人びてみえた。でもよく見ると顎のラインや肩の細さが大人にはなりきれていない。

  去年まで中学生だったのだから、仕方ない。その事実に気づく都度、恐ろしささえおぼえる。

 未希ははじめてのクラス担任だったせいか、いつもアタフタしていた。そんな時、どこからかコウイチが現れて山盛りのテキストや運動用具を運んでくれるのだ。「ありがとう、高居くん」と言うと、はにかむように笑い、去っていく。とくにこれといったコトバは交わさないけれど、なぜか胸が高鳴った。
 

 夏休み前になると、未希とコウイチはたくさん話をするようになっていた。生徒と教師のラインを保ったもので、それ以上でも以下でもない……と思っていたのに。
 先生ここ教えて。先生どこに住んでるの。先生会いに来ちゃった。
み……未希さん、駅で待ってるから。未希さん、どっか行こ。
 

 そうやって彼は、どんどん未希の懐に入ってきた。
「高居君」が「コウイチ」になっていくのに時間なんていらない。その呼び名は柔らかくて、何度も口ずさみたくなる響き。未希の中の婚約者が霞んでいった。
 「あなたが好きです」
 コウイチの真っ直ぐなコトバに、溺れる。
 

 先生なんだから生徒に手を出してはいけません。一年後に結婚するくせに何やってるの。なんて刃のような言葉が頭の中で湧き出てくるけれど、その時の未希に何ができただろう。ただ彼が笑っていれば、それだけで心がふくよかになれるのに。そんな彼が毎日「好き」だと言ってくれるのに。どうして拒否なんてできる。
 婚約者に何の落ち度もない。もちろん嫌いでもない。
 ただ「あなたが好きです」と声を大にして言えるかといえば、自信は持てない……。


 未希の誕生日は、コウイチと鎌倉で過ごした。彼が「知り合いのいない町にいきたい」と言うから、やってきたのだ。誰かに見られぬように、ひと目を気にしていたふたり。

 はじめて手を繋いで歩いた。腕は細いのに、手の平は分厚くて男っぽい。

 気づいたら材木座海岸まで歩いていた。右手の奥に江ノ島が見え、沖には船が揺れている。波が眩しく光っていたけれど、目の前にいる彼の瞳には勝てやしない。
「未希さんに似合いそうだから」
 ポケットから出したのは、金色のピンキーリングだった。ハート型のモチーフが動くたびに揺れる。
「かわいい」
 そういってハッとした。彼は「かわいい」と未希から言われるのを嫌うのだ。「年下だから」とか「かわいいね」と言うと途端に機嫌が悪くなる。でも今日の彼は誇らしげだ。最近会えなかったのは、これを買う為にバイトを増やしていたのだろうか。
 ピンキーリングを揺らしてみせる。彼はわらった。その笑顔を右手の小指に封じ込めてやりたくなった。そんなことできないけれど……。

 こんな毎日だから未希はコウイチの青臭い熱気を受け入れることしかできずにいた。だって彼の腕は今まで未希を抱いたどんな男よりも細いくせに、どんな男よりもたくましくて、懸命に守ろうとしてくれるのだから。


 だけど先週、見てしまったのだ。
 校門から出る彼に駆け寄る、同級生の桜子の姿を。彼女はそっと彼を校舎の裏に呼んだ。彼女は大人しいが、整った顔立ちをしているため男子から人気があった。その端正な顔を真っ赤に染めながら何かを伝えているようだった。
 彼は申し訳なさそうに頭をさげた。桜子は大きな目を潤ませて走っていく。
 桜子はきっと告白したんだ。でも彼にフラれた。

 その夜、未希は泣いた。
 彼を放してあげないと! ふつうに同級生と恋をして町なかで手を握れる、そんな恋愛を知らない男になってしまう。人には言えない恋しかできない男になってしまう。


「もう逢うのはよそう」
と告げた時の彼の表情が蘇る。
 別れたくなかった。くしゃっと笑うあの顔を崩すような真似はしたくはなかった。彼が私を「好きです」と言ってくれたように、未希もまた彼を好きで好きで必要だから手放すしかなかったのだ。
「しあわせになってね」
 未希はピンキーリングに接吻をした。何度もした行為なのに、なぜか涙があふれてとまらなかった。

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