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殺人鬼と人間鬼

 蝶々結びのうまくできない男が好きだ。
 トビウオみたいにまっすぐ結んだそれを、ピンピン跳ねさせ歩く姿。
 シャブリつきたくなる。
 だから本屋で見かけた、本をまっすぐ整える男に興味を抱くなんて、きっと満月のせいだとしか思えない。

 どうしました、と声をかけてきたのは、彼のほうだった。
「死後の世界とか遺言とか、そんな本ばかり見ていたので」
と彼は付け加えた。

「夫がね、なかなか死んでくれなくて、夢を見にきたの」
 
 近くにあった『夫の死後、妻がするべきこと』と書かれた本をみせた。彼は「それは切実ですね」と、にこりと笑う。
「夫はね、病気で倒れる前までは、私がすべてだった。結婚当時私は売れっ子の漫画家だったし、浮かれた女だったから、彼には迷惑ばかりかけてた。だから靴下すら自分で履けなくなった彼の面倒をみることで、トントンになったの。今の彼の趣味は愚痴と競馬。競馬も実際にお金はかけないの。ただ見てるだけ」
 また彼は小さくわらった。なぜかその青白い顔をみていると、身体の奥の焦げつきがせり上がってくる。蓋をしないといけないのに、見ず知らずの笑顔が蓋をこじ開けてくるのだ。
 きっと彼が若い頃の夫に似ているせいだ。


「まだ彼が元気だった時。ふと、彼のモジャモジャ頭を切りたくなったの」

 私は蓋を閉めようともがいて話しだした。だけどそれは無益で、毒にしかならない。止めようとすればするほど、饒舌になっていく。広い店内に私を寛容してくれるのは、目の前の男だけのような気がした。

「目に入ってチカチカするのに無頓着だったから、私が髪を切ってあげたの。寝てる間にそっとね。
 それ以来、寝室が別になった。まわりには殺されるって話してたみたいよ。さんざん、私を神様みたいに崇めていた癖に。そのころから立場が逆転して……最終的に、王様になってた。少しでも逆らうと、やっぱりあの時俺を殺す気だったんだって、すすり泣くのよ。バカよね、殺したら自由になれない。自由を手に入れるには、お金が必要なのよ。わかる?」
男は少し困った顔をして、頷いた。
 
 「さっき彼7回目の発作を起こしたの」
「え?」
「苦しそうに『おい!』って呼ぶ声がした。たぶん」
「……」
「だから本屋さんで夢を見ていたの。これは夢で、現実はヘルパーさんが対処してくれて、今も生きてるって、そう願って」
 男はまた笑った。今度の笑顔は少しだけあたたかかった。
 「たぶん、生きてますよ。早く帰って、美味しいご飯作ってあげてください」
 そういうと彼は買い物袋とカスミソウの花束に目を向けた。
「これ夫の好きな花」
「すてきですね」
「すてき?」
 だが夫が倒れたかもしれないのに、見逃したのだ。生涯で最低最悪な毒をはいてしまった。自分のしでかしたことは立派な罪だ。霞んで消えたりはしない。
「介護に疲れたら、また毒を吐きにきてください。そして一秒でも早く、旦那様のもとに戻ってあげてください」
「……そうね」
  私は本屋をでた。
 もし夫が言っていた言葉が単なる寝ごとならば、私は殺人鬼にはならない。
殺人鬼と人間鬼。そんなの紙一重だ。
 ほんの少し急ぎ足で、ツタの茂る我が家をめざす。
 家に着いたら先ほど買ったカスミソウを、花瓶に挿してやる。彼の好きな花。小さくて虫みたいな花。

 仏壇に供え、ゆっくりと写真の中の夫に手を合わせる。
 そして静かに口をひらいた。

「生命保険が支払われました、ありがとう」
 私は夫が死んではじめて、涙をこぼした。それはいつまでも続いて、とめどない焦燥感が私を支配する。
 
 私はつらつらと玄関まで歩き、げた箱にしまった白いスニーカーを取り出した。
 トビウオみたいに真っ直ぐな靴紐を、ほどき、再度結び直す。でも視界が悪くて、にじんで見えなくて、私は何度も何度も結び直した。どうしたって私には、彼のようなトビウオみたいな結び方はできない。
 
 できなかった。

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