見出し画像

全身女優モエコ 第四部 第二十回:聖処女モエコ!

 私とモエコはそれから長い間楽屋で出番を待ち続けた。とはいえ楽屋に入っているのはモエコだけであった。私は楽屋に戻るなりモエコから演技の準備が終わるまでドアを開けるなと言われていきなり部屋から叩き出されたのだ。その時モエコは私に向かって誰がきても自分を呼ぶな。そして絶対に覗くなと鬼のような顔で付け足した。そんなわけで私はストーブなど置かれていない廊下で一人震えて立っていた。

 そうして立っていると入り口の方が段々騒がしくなってきた。今日の収録のスタッフやキャストが続々と入ってきているようだ。遠くの方でおはようございます。なんて挨拶が聞こえてきた。私は夜に撮影されるモエコのベッドシーンの事を思い浮かべて陰鬱になった。私はさっきモエコから彼女のベッドシーンに賭ける思いを聞いた。私にはもはや彼女を止めることは不可能だ。このままだとモエコは本当に南狭一とセックスしてしまう。そうなる前にモエコが悪い夢から覚めてくれればいいのだが、ああ!だが不幸な事にモエコは悪い夢を見ているわけでもなく、誰かに洗脳されているわけでもなかった。モエコは誰かに洗脳されるにはあまりにも自我が巨大過ぎたし、悪い夢ならモエコ自体が生涯女優という夢そのものを生きた人間だからだ。モエコは曇りなき意識で南とベッドシーンを演じようとしているのだった。

 しかしそんな事はさせるわけには行かない。なんとしてでも止めなければ。私は廊下で震えながらモエコを止める方法を考えていた。その私の前を慌ただしい足音と、おはようございますのさらに慌ただしい挨拶が通り過ぎてゆく。私も頭を下げて挨拶に応えた。

 モエコが楽屋にいるという事を聞いたのかプロデューサーが慌てた調子でこちらにやってきた。彼は昨日のロケでモエコが酷いショックを受けたのを聞いて心配でたまらず駆けつけてきたらしい。彼は持ってきた差し入れを手にドアから楽屋のモエコに向かって差し入れを持ってきたから開けてくれと呼びかけたが、モエコからはなんの反応もしなかった。私はモエコは演技のために全集中しているのだと謝ったが、それを聞いたプロデューサーが不安げな顔で私に尋ねてきた。

「猪狩ちゃん、ホントにモエコちゃん大丈夫なの?朝早くにきたから立ち直ったって思ってきたら全然出て来ないじゃない。とにかく今日は大事なシーンなんだからモエコちゃんにはちゃんと演じてもらわないと!」

 ああ!確かに困るのだ!モエコはプロデューサーや撮影スタッフたちが想像する全く逆の方向でその何かを起こそうとしているのだから。プロデューサーはこれはモエコちゃんに差し入れと言って私に手提げ袋を渡して去って行った。続いて撮影スタッフたちももやってきた。スタッフも同じように差し入れを持ってきてモエコによろしくと言った。やはり今日は大事なシーンだから絶対に成功させるためにモエコに気を使っているのだろうか。

 しかしやって来たのはスタッフだけではなかった。なんとキャストたちまでモエコの所にやってきたのだ。今まで共演したことのない俳優たちが殆どであった。彼らはモエコが演技で海老島権三郎や三添薫を食ってしまったと聞き、一眼モエコを見ようと来たらしい。俳優たちは私がモエコが演技に全集中するために楽屋にこもりっきりである事を話すと、彼らは偉く謙遜した態度でいやいや大丈夫ですよ。それよりも火山さんを気遣ってあげてくださいと私に差し入れを渡してきた。

 私は差し入れが持てなくなったので楽屋のモエコに渡そうとノックをして彼女を呼ぼうとしたが彼女の鬼のような形相を思い出してやめた。


 モエコが演技の準備のためにドアさえ開けてくれないので私はとにかく廊下で待つしかなかった。その後も関係者が続々と楽屋を尋ねて来て差し入れを出しながら、昨日のモエコの演技をベタ褒めし、火山さんは久しぶりに現れた新星だと言ってくれた。私はもはや持ちきれず廊下に置くしかなくなった差し入れを見てモエコがここまで期待される女優になったのかと感動すら覚えた。だが、モエコを待っているのは南との呪わしいベッドシーンなのだ。ああ!モエコは本気でベッドシーンに取り組むつもりだ。本気すぎるほど本気に。

 しばらくすると海老島権三郎の付き人がやってきた。彼は先生も期待しているぜと言って差し入れを出してくれた。箱を持った瞬間タプタプと液体がビンに当たる音がしたので酒だとすぐにわかった。付き人はじゃあよろしくとすぐに去った。それからいくらもしないうちに三添薫のマネージャーもやってきた。彼女は丁寧に「つまらないものですか三添からの差し入れです」と言って差し入れを私の元に出した。私は恐縮して受け取り深く頭を下げた。

 続いて俳優の蟹谷新三が現れた。私は蟹谷の思わぬ登場にビックリしてしまった。彼は三添薫扮する上代典子の浮気相手役の羽村浩介を演じている俳優である。彼は知性派俳優として知られているが、そのインテリ俳優もモエコに興味を持ったのだろうか。私は恐縮して頭を下げて挨拶をした。しかし蟹谷は私の挨拶に応えず廊下に置かれた差し入れの山を一瞥して半笑いをしてそのまま通り過ぎてしまった。


 それから再び人気がなくなった。先ほどまでひしめいていた声と足音は遠くでかすかに聞こえるだけだ。人の熱気で暑くさえ感じた廊下は再び寒くなってきた。時計を見るとまだ8時前だ。ああ!これから長い時間寒さに耐えなければならないのか。

 しかしその時である。喧しい声と足音がとある人物の入場を告げた。あの三日月エリカである。「三日月さんおはようございます」とのスタッフの挨拶に三日月は「よろしくお願いしま〜す!」とブリにブリをかましたようなぶりっ子ぶりで応えている。三日月はスタッフやガードマンに囲まれながら歩いてたが、私を見ると大便器にまたがったようなブリブリの小走りでやってきて「ああ!モエコちゃんのマネージャーさんね。朝早くからどうしてここにいるの?まさかモエコちゃんもう来てるの?」と尋ねてきた。昨夜のロケであれだけモエコに酷い仕打ちをしておきながらどういう神経をしているのか。私は三日月とのバトルを恐れてモエコは演技に集中したいから本番前には誰にも会わないと言って帰ってもらおうとしたが、しかし三日月は私の言葉を聞かずドアをノックしてモエコを呼んだ。

「ああ!モエコちゃん!エリカモエコちゃんが心配でお見舞いに来たのよ!だってモエコちゃん、昨日のロケであんなに醜悪で残酷なことさせられたんですもの!おまけに今日は南くんとのベッドシーン。しかも裸になるんでしょ?ああ!エリカにはそんな事耐えられないわ!モエコちゃん、怖がらないで出てきて。エリカが慰めてあげるから!」

 もはや遠慮なしの大哄笑でモエコを嘲笑う三日月であった。彼女は昨日の強姦シーンの撮影で果てしなく意気消沈したモエコに止めを刺さんとしているのだ。三日月はモエコが出てこないので諦めたのか取ってつけたような笑顔で私に甘い香りのする菓子箱を差し出した。

「ウフッ、モエコちゃんのためにクリームパイもってきたわ。ちゃんと渡しておいてね。このクリームパイはね、モエコちゃんが無事に演技が出来ますようにっていうおまじないなの。収録の前に食べてもらってね!」

 三日月はそう言うと何故か菓子箱を見て邪悪な笑みを浮かべた。そして再び口を開いた。

「マネージャーさん、モエコちゃんに何かあったら絶対にエリカの所に来てね。エリカ、真っ先にモエコちゃんの所に駆けつけるわ!」


 三日月が去り廊下が静まり返った。もう誰も来る様子はなかった。先程までそこかしこに聞こえてきた声や足音はなくなった。完全に皆スタジオに入ったようだ。私は寒さに震えながら時が来るのをひたすら待ち続けた。まるで死刑執行の当日のような冷え切った空気。ああ!死刑が執行されようとしているのは勿論モエコだ。モエコは自らの女優魂の命ずるがままに、南狭一に文字通りベッドに磔にされるために待っている。時折遠くで聞こえる足音が死刑執行を告げる刑務官の足音のように聞こえてきた。刑務官はやがて楽屋にやってきてモエコを呼び出すだろう。

「火山モエコ、時間だ。裸になってここから出ろ!今からお前をベッドで磔の刑に処する」

 モエコは呼ばれるなり裸になって誇らしく処刑場へと歩いてゆくだろう。それが自分に待ち受けている地獄とも知らずに!

 ああ!やはりダメなのだ!こんなベッドシーン如きにあんな事をしなくても良いのだ。だが、私にどうすれば良いのか。監督や南狭一に向かってモエコの事を正直に話すべきか。いや、そんな事を話したら彼らは却って大ノリでモエコの本番を撮るに決まっているではないか。だとしたら南のあの物凄い顔したマネージャーしがないが彼女に話したら逆にこちらが首にされるかもしれない。なんですって?まさか演技にかこつけて本番しようだなんてとんでもない雌猫!今すぐクビよ!うちの事務所の力を使って芸能界から追放してやる!と、わめき散らすだろう。そうなったらもう全てが終わりだ。

 と頭を抱えた時楽屋からモエコの劈くような叫び声が聞こえた。私は何事かと思わずドアを開けたが、なんとそこにタンスが置かれていて真っ暗になっていた。私はタンスを叩いてモエコに呼びかけたが、タンスの向こうにいるモエコはブチ切れて私を怒鳴り散らした。

「このバカ!アンタさっき絶対にドアを開けるなって言ったでしょうが!アンタつるの恩返し読んでないの?つるが機折って着物作ってる最中は覗くなって書いてあったでしょ!モエコはつると同じように命をかけて演技を作っているの。完璧に、美しく演じられるように!」

「じゃあさっきの叫び声はなんなんだ!俺はお前が針でも刺したんじゃないかってビックリしたんだぞ!」

「バカ!よくそんな事聞けたわね!モエコが今日の演技をどれだけ苦労して作ってるかわからないの?ああ!早くドアを閉めなさいよ!アンタのせいで途中までしか出来なかったじゃない!」


 こうして再びドアは閉じられた。外はいつの間にか暗くなってきてついに真っ暗になってしまった。ここで今日の収録について少し話すが、今日はほぼ第10話の収録であった。しかし今回モエコが出演するのはその第10話ではなく第9話なのだ。何故話数が前後しているかドラマや映画に詳しい人ならご存知だろうが、もっぱらキャストのスケジュールの都合や、テイクを重ねそうなものを後回しにして他の場面の撮影に影響が出ないようにするためである。今回のモエコの収録もそのような都合で一番最後に撮ることになった。監督は聞いたところによるとあの強姦シーンをとった男らしい。私はそれを聞いてゾッとした。もしかしたらこの男は南に本番をするよう仕向けてくるかもしれない。そうなったらどうすればよいのか。一応南のあの物凄い顔をしたマネージャーがいるのが救いだが、彼女は撮影自体をぶち壊しかねない。どうしたらいいものかと悩んでいるところに足音が聞こえてきた。これは間違いなく死刑執行を告げる刑務官の足音だ。

 私の前に現れた刑務官こと、女性のスタッフは準備ができたと告げにきた。それを聞いてすぐさま異様に上気した顔でモエコが飛び出してきた。彼女はやっときた出番がきたと喜び女性スタッフの手を握った。

「ああ!とうとうきたのね!待ちくたびれたわ!もう準備は済んだわ!モエコはいつだってOKよ!」

 女性スタッフはモエコに向かって湿布のようなものを見せて説明を始めた。

「あのこれ前貼りです。あまり在庫がないんで大事に扱って下さい。一応貼り方を教えるので楽屋の中に入れてもらってよろしいですか?」

「前貼り?何それ」

「役者さんにベッドシーンを演じる際必ずつけてもらってるものです。正直言ってかなりかっこ悪いし、取るときも大変だと思いますが……」

 前貼り。そうか!前貼りを忘れていた。これをつければいくら南狭一がどすけべのイモリ野郎でも手は出せまい。モエコも一瞬にして覚めて現実に返ってくれると思った。しかしである。モエコは急に不機嫌になりスタッフから前貼りを取り上げるとそれをヒラヒラさせてこうのたまったのだ。

「なんでモエコがこんなカッコ悪いものを身につけなくちゃいけないの?そんなものつけたらこの田舎の純水で育った清らかすぎるほど清らかなグラマラスボディが泣くわ。せっかくだけどお断りよ!持って帰って!」

「だけどこれは皆さんのためにつけてもらっているものです。いくら不格好だからってつけないでいると大変な事になりますので」

「何が大変なことよ!そんなものつけていたら演技なんてまともに出来はしないわ!モエコは今本気で演技をしなければならないのよ!そんな時に前貼りなんてそんな小っ恥ずかしいものなんかつけられないわよ!」

「モエコ、スタッフさんの言う通りだぞ!役者さんはみんな前貼りつけているんだ!つけてないのはお前だけだなんて恥ずかしいじゃないか!今すぐにつけなさい!なんなら私が手伝ってやる!」

 モエコに前貼りをつけさせようという思いが先走って私はとんでもない事を言ってしまった。モエコは激怒しスタッフは呆れていた。

「とにかくモエコは前貼りなんてつけないわ!あなた申し訳ないけどこれ持って帰ってくれない?」

 そう言うとモエコはスタジオへと向かって歩き出した。ああ!前貼りすら拒絶し演技のために自らの身を捧げようとするモエコ。その姿はまさに聖処女ジャンヌ・ダルクであった。だがジャンヌ・ダルクとは違いモエコは処女を捨てるために刑地へと向かおうとしている。杉本愛美を演じ切るため。たったそれだけのために。その時モエコは立ち止まり振り返って私に言った。

「猪狩さん、お願いだからこれ以上モエコを止めないで。今、モエコは本物の女優になろうとしているんだから」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?