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あなたに捧げるボイスノベル

「満足しないで現状の自分に……」とイヤホンから流れるボイスノベルを聴きながら岡詰太郎はいつも帰宅の途についていた。彼は最近Kindleで買ったこのボイスノベルばかり聴いていた。とは言っても別にノベルの内容が気に入っているわけではないし、ノベルにつけられているアニメ調の絵が好きなわけでもない。話はありきたりな青春の挫折からの立ち直りをテーマにしたものであり、ハッキリいえば鼻で笑うべき代物だ。絵も素人が書いたような下手くそな絵でまともに商品として売るのはどうなのかという代物である。ただ彼は小説の朗読だけを目当てに聞いていたのである。朗読は者は女性であるが、素人なのかところどころ噛むところがあり、小説や絵と同じように通常だったらとても聞けないものである。しかし、その全てを包み込むような甘く優しい声は聴いていて心地よくその声のせいでこの大した事のない物語に何度か涙をこぼした。冒頭に記した「満足しないで現状の自分に……」という台詞は小説のクライマックスに落ち込んだ主人公を慰めようとヒロインが放つものだが、岡詰はそれを聴いていて時々自分に対して言われているような気がしてハッとした。ヒロインはこのセリフにこう続ける。

「夢を諦めたらそこで人生終了ですよ。なんてね」

 岡詰は彼女の声を聞きたいあまり、小説のクレジットに載っている彼女の名前をググった。しかし彼女の名前はこの小説でしか載っていなかった。彼はもしかしたら作者自身が朗読しているのかと考えたが、冷静に考えて作者は男性名義であり、小説の文体からして明らかに男性のものだったのでやはり違うと考えた。だけどあんな下手くそな朗読をプロがやるだろうか。彼女は一体誰なのだろうか。岡詰は朗読を聴くたびに名前と声しか知らないこの朗読者に想いを馳せた。

 今日もいつもと同じように岡詰は帰りの電車の中座席に座って彼女の朗読を聴いていた。しかし今日は残業で疲れていたせいかいつのまにか眠ってしまった。その岡詰誰かが肩を叩いて起こした。岡詰は目を覚ますと思わず叩かれた肩の方を向いた。そこには三十代半ばのふっくらした女性が座っていた。彼女は目を覚ました岡詰にBluetoothのイヤホンを差し出して「落ちていましたよ」と言って差し出してきた。イヤホンからはボイスノベルの朗読が聴こえる。彼は恐縮してイヤホンをもらうと「申し訳ありません!」と何度も頭を下げた。すると女性は彼をじっと見つめて尋ねてきた。

「あの、ちょっとお尋ねしますけど、今イヤホンから流れていた音源ってKindleで売っていたものですか?」

 馴染みのある声だった。彼はまさかと一瞬思ったが、似たような声をした女性などいくらでもいるしまさか彼女ではないだろうと考え、とりあえずそうだと答えると、続けてあなたもこの小説を知っているのかと聞いた。すると彼女は笑ってこう言ったのだ。

「いえいえ、知っているも何もこの小説を朗読してるの私なんですよ!」

 やはりそうであったのか。岡詰はこのあまりの偶然に心臓が震えるほど動揺した。当たり前だが彼女は自分の想像していた人間とはだいぶ違う。だが全体の雰囲気は声から想像した通りだと思った。たしかにあまり美人とは言えないが垂れ目の顔が優しさに溢れていた。

「あ、あなたが朗読していたんですか?」

 岡詰は興奮のあまり思わず大きな彼女に聞いてしまった。彼女は慌ててシーっと嗜めて答えた。

「確かに私です。私もあなたの隣に座っていたら昔の自分の声が聞こえてきたんでビックリしたんですよ」

「ご、ごめんなさい。僕いつも帰りにあなたの朗読聞いてるんですよ。その当人にあったんで興奮してしまったんです!」

 彼女は岡詰の無邪気な喜びように微笑んで言った。

「でも、凄い下手な朗読でしょ?小説だってお話にならないけど……」

 岡詰はなんとも言いかねた。当たり前だが本人に向かって正直な意見なんて言えるわけはない。

「あなたの表情から分かりますよ。一番酷いのは自分たちだってわかっているから。あのね、少し長い話がしたいんだけどお家はまだ先ですか?」

 ありがたい事にまだまだ先だった。岡詰は毎日千葉の山奥から東京に通っているのだ。彼女は岡詰の返事に微笑んで長い話を語り始めた。

 彼女の話によると小説は主人が本業の片手間に書いたものらしい。彼女は主人が小説をボイスノベルとして売りたいと言い出したので朗読を買って出たそうだ。しかし素人の書いた小説など売れるわけもなく、一冊も売れなかったらしい。だから彼女は電車から流れる自分の朗読を見てすごく驚いたそうだ。まさかあの小説を買った人間がいるとは思わなかったと語っていた。彼女は最近多忙でろくにAmazonをチェックしていなかったから気づかなかったと言っていた。彼女はそれから結局主人と自分の小説はその一冊だけとなり、二人はその小説を書いた経験を活かして全く別のことを始めたと語った。

「あの、大失敗作を書いたおかげで私たちに道が開けてきたの。本当にあれがなかったら今こんな事はやっていないし、私たちにとって本当にそれがよかったのかわからないけど……」

 そう語ると彼女は急に暗い表情を見せた。岡詰はその表情を見て思わず聞いた。

「あの、今何をやっているんですか?」

「知りたい?」

 彼女のそう問いかける目に岡詰は臆して黙り込んだ。これ以上深入りするのは良くないような気がした。そうして話は終わり二人はそのまま黙って座席に座っていた。しかし電車がとある大きな駅に着くと彼女は立ち上がって岡詰に今日はありがとうと別れを告げだ。岡詰も彼女に感謝を込めて言った。

「あの、俺あなたたちの小説に、もっとハッキリ言うとあなたの朗読にいつも励まされてきたんです。「満足しないで現状に」とか「夢をあきらめたらそこで人生終了ですよ」とかそんな言葉をまるで直接自分に向かって言われているように聞いてきたんです。だから俺今夜あなたと出会えたことが嬉しくて……。俺ずっとあなたの小説聞いていきます。またどこかであったらよろしくお願いします!」

 岡詰の言葉を聞いて彼女は目を潤ませた。そして涙声で岡詰に声をかけた。

「あのね、さよならする前に君に一つ忠告しておくね。あんまりフィクションにを間に受けない方がいいよ。世の中はフィクションみたいに単純じゃないんだから。じゃ、さよなら……」

 そう言うと彼女は開いているドアから駅のホームに降りたった。


 翌日の昼食中に職場のテレビのワイドショーを観ていた岡詰は突然速報で流れた振り込み詐欺の犯人の逮捕のニュースを観て驚きのあまり思わず席を立った。そのニュースに映し出された犯人夫婦の妻が咲夜電車であったあの彼女と瓜二つだったからである。








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