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【エッセイ】過ぎ去った静けさを追う

喋りたくないことを喋っている。言葉をつむぐほどにそれが迫ってくる。けれどもなにを喋りたくないのか、なにから逃げているのか。それを知らなければ逃げることもままならず、だからまた喋る。

苦しいとか痛いとか恥ずかしいとか、嬉しいとか楽しいとか気持ちいいとか、そういった感情が極まったところで、ふとそれが他人事のように感じられる瞬間
それまでの感情の激しさとの落差のせいで、突然無風が訪れたときそれが強烈な印象を持つように、この感覚じたいも強烈だ
そこでは迷い込んでしまったというしかない居心地の悪さが湧いてくる
現実からそれまでの自分が逃げ出して、身代わりに置いて行かれたような心地がする
まったく場違いな、その場にどんな共感も持っていない自分が呼び出されたというような感覚

自分が空っぽでなにもないというなら、せめてその空っぽさにたいしてだけ、誠実であれればと思う。

人は自分だけの静けさを求めて、ぺちゃくちゃと音を立てる
彼ら彼女らが立てる音、私たちにとってはうるさく感じられる音は、彼ら彼女らにとってはひとつの静けさなのだ
世界に向かって音を発しているときほど、自分自身が静まっていることはない

私たちはみな自分だけの静けさを欲しがっている
そんなものを見たことも聞いたこともないくせに
けれど静かにする方法を知らないから、音を立てることしかできないから、音で静けさをあらわすしかないのだ

私たちには、他人に話しかけるように自分に話しかけ、自分に語るように他人に語る、そんな言葉遣いがある
それでもって自分のなかの誰かを、誰かのなかの自分を探す

誰かとわかりあいたいと願うことが、そこに自分を見出したいということと同じなら、
その願いの真実は誰もいない一人だけの世界を望んでいるのかもしれない
誰かとわかりあいたいと願う心が孤独を深めていく訳はここにある
今ではなくとも、少なくとも未来の孤独を、
それは自分では知らずに求めてしまっているのだろう

逃げることと立ち向かうことのあいだには実は思っているほどの違いはない
逃げているつもりがいつのまにか立ち向かっていたり、立ち向かっているつもりがいつのまにか逃げていたりということは、よく起こる
しかもそうなるのは結構な頻度で、一生懸命になっているときなのだ

私たち自身が一生懸命になることはないかのようだ
なにかに打ち込んで、夢中になっていると、気づけば時間が経っている
まるでその時間のあいだだけ、誰かが私たちのかわりにその時間のなかにいたかのよう
もちろん私たちがなにも覚えていないわけではない
けれど、その時間をはっきりと言葉にしたりとらえたりすることはできない
まるで夢の中の出来事のようでもあって、夢の中の自分にその時間を明け渡したようでもある
起きている私たちが、夢ではその余白であるように、私たちはその時間の余白になって、別の誰かを包んでいる。そのときにしか生きることのない誰かを

今この瞬間にも、この私を去っていった誰かがいるかもしれない。言葉は私から発するようでいて、その人たちが今ここにのこしていった残響だという気が、今している。


読んでくれて、ありがとう。

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