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第21回 聖者に学ぶ、現代社会で「修行」して人生を向上させる方法

ふと周りを見渡すと、私達の周りには沢山の神社やお寺がある事に気が付きます。

街に出ればキリスト教や創価学会、幸福の科学の建物をよく見かけますよね。

結婚式にお葬式、盆に正月、クリスマスにハロウィン。

科学が発展して宗教がなくなってしまったように見えますが、わたしたちの周りにはたくさんの宗教めいたものが満ちあふれていて、生活と密に溶け合っています。

先日、天理市にある大和神社に行くことがあり、何気なく看板を読んでいたら、なんと創立二千年だと書いてありました。

二千年あれば、百代くらい入れ替わることになります。そんなにもながい間どのように存続してきたのか、わたしには想像もつきませんが、とにかく宗教というものが二千年以上も続いていることを、改めて考えさせられました。

宗教は世界中にあるわけですから、二千年もあれば何十億人という人が宗教に関わっているわけです。

そんなにも長い歴史の中で、人々は宗教を巡って戦争をしたり、弾圧を受けたりしながら、なおもその教えを語り継いだのです。

どうしてそこまで大勢の人に愛され守られ、受け継がれてきたのでしょうか。並大抵のことではありません。

考えてみると宗教というのは、現代社会に生きるわたしたちの常識を超えた、ふしぎな文化です。

...しかし、それらは元をたどれば「聖者」と呼ばれる、たった一人の人間によってはじめられたものですよね。

例えば、「イエス・キリスト」は、その教えをもって何千年もの間、何億人もの人に影響を与えてきました。これはどんなアーティストにもマネができない大偉業です。

しかしきっと彼は、まさかこんなに大きな組織になるなんて、思いもしなかったのではないでしょうか。彼が生きていた時にキリスト教はなかったし、そもそもキリストの名を知っている人なんてほぼいなかったんです。

同じように、「ブッダ」が生きていた頃には、仏教はありませんでした。

仏教と言えば「お経」が有名ですが、お経はブッダの教えを分かりやすくするために、後世の人が作り出したものですから、ブッダはお経を唱えたことがないんです。

そもそも私達が思い浮かべる「お寺」というものも、後世の誰かが設計した日本独自のもの。

つまり、わたしたちが「宗教」と言われて思い浮かべるイメージのほとんどは、聖者が死んでしまった後に、後世の人間によって作り上げられて来たものなんです。

では聖者とは一体、何をしていた人なのでしょうか。

きっと彼らは「身ひとつで荒野をかけ巡って、人々を助けてまわっていた」人なのです。

困っている人に、どう生きたら幸せになれるのか、どうしたら病が治るのか、教えを説いてまわったのです。そして病気や困りごとを救うために奇跡を起こしてみせた。

こうして「助かった」と感じる人がどんどんでてきて、聖者をしたって集まってきたため、自然と聖者がいる場所が相談所となった。

ただただ単純に、こうして地道に人をたすけてきたのです。

そして聖者が死んだ後、後世の人々は文字や言葉を使ってその教えを世界中に広めました。

彼らが残した教えは、人々を教え導いたり、愛を学ばせるためにとても役に立つものだったからです。

貧困にあえぎ、無知なままたがいに憎みあっていた人々は、聖者の教えに出会うことで、人としての正しいあり方を学んだのです。

こうして聖者の教えは確かに争いも生みましたが、結果としてはたくさんの人の困りごとを解決し、道徳心を養って、生活の質を上げた。

つまり人間の文明が発展し、繁栄するために「ものすごく役に立った」のです。

つまり聖者を考える時、「人様のお役に立つ」という事をシンプルにつき詰めた人だと考えれば、分かりやすいのではないかと思います。

そう考えると現代にも、人のお役に立っている人って沢山いるなあと思うようになりました。

例えば、スティーブ・ジョブズは「スマートフォン」を発明して、人のお役に立ちました。

スマホは安くて、ものすごく便利なので、多くの人が持っています。電話ができて、ネットにつながるこの技術は、私たちの生活を根本的に変えてしまいました。

スティーブ・ジョブズはスマートホンを使って、何億人の人が困っていたことを、一気に解決してあげたのです。それは規模は小さくとも、聖者のように「大勢の人を助け上げた」と言えるのではないでしょうか。

そのほかにも、パソコンを作ったビル・ゲイツ。

わたしたちが日常的に使うグーグルやアマゾンのサービス。

テレビやラジオによって人々は知識を得たし、

洗濯機ができた事で主婦は洗濯の苦労から解放されたでしょう。

またテスラが電気を発明したお陰で、私たちは手軽に機械を扱えるようになったのです。

これらの発明は様々な「困り事」を解決して、とても「役に立った」から、世界中に広まったのです。

こうして様々な場面で「人々の役に立つ」人達は、まさに「現代の聖者」と言えるのではないでしょうか。

しかしこういった人たちには、欠点もあります。

ジョブズは若い頃から怒りっぽくてワガママでごうまんで、周りの人がどんどん離れて行きました。人間ですから、欠点もあったのです。

しかし、得意なパソコンの技術を生かしてすごく便利な道具を発明したことで、人の役に立つことができた。

例えばライブドア事件で問題になったホリエモンは、お金を集めるためにサギまがいのことをして、刑務所に入れられました。しかも高圧的で口が悪くて、全然立派な人間ではありません。

それでも世の中の動きを読み取るのがとても得意なので、それを人に教えて、今でもたくさんのビジネスマンが助かっているんです。

彼らはわたしたちと同じ人間なので、聖者のように苦行をしたわけではないし、人間的に完璧ではありません。

しかし「人を助けてわが身助かる」ということを身に行っていることが素晴らしいから、人が集まってくるのですね。

わたしは少し前まで、おやさまのひながたに近づくという事は、とにかく「完璧」でなくてはならないと考えていました。

教理もマスターしなければならない、性格もよくなくてはならない、だれよりも動かなくてはならない...

おやさまのひながたに比べると、自分はまだまだ足りない存在でしかありません。

こうして「自分を犠牲にしなければ、人のためにはなれない」と考えていたのです。

しかし、毎日無理を繰り返しているうちに、疲れ果てて、上手くいかなくなってしまいました。

人を助けるどころか、自分の機嫌すら取れていなかったのです。

仏教の言葉に、「即是道場(そくぜどうじょう)」という言葉があります。

「自分の体の行く所は全て教会でありお寺である」つまり、わたしたちの人生は24時間、全て修行場だという考え方です。

不完全な私たちですから、教祖や、キリストや、ブッダのように、完璧な存在になれと言われると、苦しくなってしまいます。

しかし今同じ時間を生きて、一緒に修行をしている「現代の聖者」のようになれと言われると、その「人のお役に立つ」姿に学べることはたくさんあります。

彼らも私たちと同じように完璧ではありません。失敗しながらも努力をしているんだと思うと、わたしも自分のできることを最大限にやろうと思えるんです。

二代真柱様のお言葉に、こういうものがあります。

なるほどの人とは……一般的に言って、教会長の立場の人は、教会長らしいということを考えたらいいわけなんです。お父さんならお父さんらしく、お母さんならお母さんらしく、それぞれ家業にいそしんでいらっしゃる方ならば、その仕事をもって考えれば、八百屋さんなら八百屋さんらしく、お菓子屋さんならお菓子屋さんらしく、お寿司屋さんならお寿司屋さんらしく、それぞれ、それぞれらしくなって、なるほどと人が認めてくれるその姿を指して、一般的に言うのであります。
(一五一 千葉教区教務支庁移転記念教区先達躍進の集いより抜粋)

例えば栗原はるみさんという方は「家事」という一見地味な仕事をとことんまで突き詰めて、「カリスマ主婦」として様々な講演会に呼ばれるまでになり、多くの奥さん方のお役に立ちました。

日本の中小企業でも、ネジ一本をとことんまで突き詰めた結果、世界に輸出されている工場が沢山あるんです。

聖者と呼ばれる人々も、はじめから大宗教があったわけではなくて、自らの周りの人たちを地道に助け続けていたんです。

これまでの人生を捨てて、何か特別な存在になることなんて、できないんです。

即是道場といわれるように、自分に与えられた場所でこつこつと「人のお役に立つ」という事を突き詰めることが、本当の「修行」だとわたしは思います。

「人に与えて、喜ばせたら徳積み」と教えて頂くように、まずは自分の仕事がどれだけの人の役に立っているかどうか、考えてみてはいかがでしょうか。

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