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25℃の嫌悪

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2015年に発行した短編小説集。完売から時間が経ったのでweb再録します。絵は岡藤真依さん(@maiokafuji)の作品。
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#小説

海辺のあの子

海辺のあの子

あの子の名前ならよく覚えている。けれど毎日をふつうに暮らすとき、わたしはそれをすっかり忘れたふりをする。高校時代の思い出を話すときだって、わたしの物語にあの子は出てこない。あの子の名前、それはわたしにとって、誰かに聞かれた途端元のかたちでなくなるようなもろいものだ。ときおり、意味もなく目の覚めた朝方なんかにそっとつぶやいてみるだけの、通り過ぎた日々の墓標。

あの子は学校指定のローファーをもってい

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願い事

願い事

ビーチに行くならビーチサンダルよ、とゆうへいちゃんは言う。島にひとつしかない埃くさい雑貨屋で、ゆうへいちゃんが選んでくれたそれはあかるいオレンジ色。鼻緒のところについた、ビニールのおおきなお花。安っぽいところがとてもかわいい。

いいなあ、とゆうへいちゃんが指をくわえてみせる。「それ、ワタシずっと狙ってたやつよ。」サイズ合わなくてさ、とふてくされるゆうへいちゃんに、履けばいいじゃん、と言ってみたけ

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15分たち

15分たち


冬の独裁者
きれいな子、とあなたは日に何度思うことがあるだろう。たとえばいま、目の前にいる女生徒はそう思うに値するだろうか。彼女は一目見る限り平均的と言うべき顔立ちかもしれない。でもよく見ると、制服はスカートのプリーツまできちんとアイロンがあてられ、短い靴下を履いた脚は寒々しいが色は白くまっすぐに伸びている。革靴もよく手入れがされているし、おまけに髪がすこしも乱れていない。きょうは風が強いのに!

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蟲の恋

蟲の恋

晴れた朝。ビニルハウスは日差しをいっぱいに受けて暖かく、土がやわらかに匂いを立てています。いつものようにブリキのバケツを持ってやってきた老人がビニルハウスの中を歩くたび、朝露に湿った土が彼の体重に見合った慎ましい深さで沈みます。

蟲は肢の間から伸ばした糸にぶら下がり、八つの肢をゆっくりと開いたり閉じたりさせました。ほんとうは蟲とは呼ばない生き物ですが、ちいさくて肢の細いところはとても蟲らしくある

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素描「水とピアス」

素描「水とピアス」

終電も過ぎた午前二時。こんなところでもつい、お金を渡すとき「お願いします」と声を出した私と、明らかに酔った奇声を上げる鷲田さん。ふたりぶんの女の声を聞きとめたフロントのおばちゃんは、すりガラスごしに「何やってもいいけど、ゲロだけは撒かないでよね」と言った。何って、と思いながら鍵を受け取る。私たちはただ、眠る場所ときれいなトイレが要るだけだ。

定員二名、と書かれたドアの鍵を回す。失恋のやけ酒で酔っ

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birthday

birthday

きれーい、と川の向こうを指す子どもの手を母親が引っ張る。私はやさしい気持ちになって胸のなかで話しかける。おじょうさん、あれはラブホのネオンなのですよ。

私もそうと知るまでは、あのお城みたいなホテルに泊まりたいと言ってごねたりした。ジュ・テーム、こねこのベッド、FESTA、諳んじている店名を、連なって見える光のそれぞれに重ねた。団地の裏にあるこの土手は、年に一度だけ賑わう。遠くで打ちあがる花火がち

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ふるい水

ふるい水

さよちゃんはトイレの鍵を閉めた。私はさよちゃんのスカートの下、便座にしがみつくような勢いで頭を傾けながら、食べたばかりのチョコレートケーキを吐き続けた。

チョコレートは好きだけど、チョコレート味のものは苦手なの。それが言えないばっかりに、膨らんだ胃から溶けた脂肪分のかたまりが流れ落ちていく。さよちゃんの家のトイレはいつも芳香剤が効きすぎていて、いかにもよそのおうちっぽいけれど団地の真下だから間取

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