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ふるい水

さよちゃんはトイレの鍵を閉めた。私はさよちゃんのスカートの下、便座にしがみつくような勢いで頭を傾けながら、食べたばかりのチョコレートケーキを吐き続けた。

チョコレートは好きだけど、チョコレート味のものは苦手なの。それが言えないばっかりに、膨らんだ胃から溶けた脂肪分のかたまりが流れ落ちていく。さよちゃんの家のトイレはいつも芳香剤が効きすぎていて、いかにもよそのおうちっぽいけれど団地の真下だから間取りはうちと同じ。


「だってチョコは好きなんだよ。まちがってチョコまでもらえなくなったらどうするの」


あのね、とさよちゃんが言った時、胃がひくりと跳ねあがったのを覚えてる。語尾を上げたあのね、が出るのはさよちゃんのお説教が始まる時で、お説教が始まるのは私を「子どもっぽい」とさよちゃんが言うときだ。同じ年中組だけど四月生まれのさよちゃんは、小柄なくせにお姉さんらしくふるまうほうを好んだ。そして、さよちゃんは私が子どもを演じることを許してはくれなかった。私が吐き終えると見るや勢いよく水洗のレバーを押し下げ、スカートの中が見えないよう器用に下着だけ脱ぐと便座にまたがった。キッズブランドのキャラクターが笑うアップリケの下で、さよちゃんの尿が水におちていく音がする。


「エンリョ、しなきゃいけないの」


引っ張り出したトイレットペーパーで股をぬぐいながら、睨めつけるさよちゃんの長い睫毛。ジュースあるよー、とナナさん――さよちゃんのママ――が呼ぶ声がして、さよちゃんははぁい、と子どもぶった声で返事をする。その声に引き摺られるみたいに、空になったはずのおなかがまた痛み出して唾が口いっぱいに溢れた。のいて、と言いたくて僅かに開けた唇からさらさらの唾液が顎まで伝い、押さえた指の間から零れて逃げてゆく。いまいくー、と間延びした返事とは裏腹に意地悪く冷めた目をしたさよちゃんの膝頭を掴むと、細い腿の間に顔を押し込んで中身のないげろを吐き出した。さよちゃんの尿と私の胃液がまざりあい、なまあたたかい湯気になって顔にぶつかる。


ナナさんはモモを大事にしている。モモはさよちゃんちの犬でいまはクマ。すごくかしこくて可愛かったらしいけれど、本物はもういない。私の物心がつく前に骨になったモモは、人の赤ちゃんくらい大きさのあるテディベアの中にしまわれている。さよちゃんの家のテーブルにはモモのための椅子があって、食事はいつもモモと一緒。ジュースの置かれたテーブルに近づくと、モモのために置かれたコップにだけ幼児用のストローが突き出している。


「モモは大人だから、ストローいらないんじゃない」


りんごジュースで唇をしめらせたさよちゃんが、訳知り顔で呟いた。


四年生の夏になっても、さよちゃんはクラスでいちばん小さな子どもだった。さよちゃんがよく着ていた、膝まであるワンピース型の肌着は大きすぎて、着替えながらさよちゃんが屈むと肌着の脇からいつも平坦な胸が覗いた。

私は頭こそチョコレートケーキを吐いたころのままなのに、背の順で後ろの方になるのがいやだった。さよちゃんとずいぶん離れてしまうせいと、藤井さんや辻さんといった気の強い女の子のグループが後ろの方には固まっていたからだ。体操服に浮き上がるスポーツブラの線を見た彼女たちがこそこそと言い合う声を聞くたびに、いっそのこといちばん後ろになれればよかったのに、と思っていた。慣れない下着に贅肉を締め付けられながら、さよちゃんの後ろに隠れきれない育ちすぎた身体を持てあましていた。


「気にすることないよ、みんな大人になるんだから」


『モモに会いたくて』さよちゃんの家に来た私の前で、ナナさんは下着まで取り換えて出かける準備をしている。さよちゃんが習い事に出かけて不在なのを知りながら口実をつけてやってきたのは、私の悩みをさよちゃんに聞かれるのがこわいから。

さよちゃんは誰よりも大人びているはずなのに誰よりも幼い身体をしている。さよちゃんの身体とナナさんの身体は似ていない。普段服に隠れているはずのナナさんの肌は焼けたように浅黒く、大人のかたちをした乳房の先もまた私が知るそれよりも色濃くて大きいものだった。

外国のひとの胸みたい、と私は外国人のそれを見たこともないのに思った。モモのほころびた頭越しに盗み見る私とは反対に、まるで見せつけるようにナナさんは下着一枚で服を選んでいる。一度シャワーを浴びたはずの背中に新しい汗が浮かび、やわらかそうな背中の肉を伝って腰まで落ちる。


「ママのおっぱいとどっちが大きい?」


振り向いたナナさんが笑うと、うすく脂肪のついたおなかが動く。あそこにさよちゃんが居たんだ、そう考えてみたけれどうまく想像ができなかった。さよちゃんがあのお腹にいたことも、あの胸を吸っていたことも、そう遠い昔じゃないんだということがよくわからない。


そんなふうに女のひとを見てしまったのは、私が初潮を迎えたからだった。運悪くプールの授業と重なってしまい、私はひとり体操着のままプールサイドで見学していた。

水着よりもたくさん服を着ているはずなのに、濡らさないよう靴と靴下を脱いだ脚は無防備すぎるように見える。それは正しくない姿だからだろう。私一人がこの場所で、正しくない格好をしている。

大きめのハーフパンツの裾からプールくさい風が吹き込み、不愉快な下半身をぶわりと撫で上げる。日差しに焼かれていた三角座りの足をひっこめると、陰に入って急に涼しくなった。クラスの子たちに水をかけられた蝶々が低くプールサイドを飛び回り、青と黒の羽根が翻るたびその周りにはいくつもの水玉模様が飛び散ってはすぐに乾いて消えた。


藤井さんのグループが近づいてきた。スポーツブラをまたからかわれるかもしれない。そう思って背筋を伸ばしたけれど彼女たちは後ろに回り込むことはしなかった。にやにやと笑みを浮かべて互いを突つきあい、正々堂々と正面から


「もう生えた?」


と訊ねた。それが何を指すのかわかることが、死にたいくらい恥ずかしかった。ホイッスルが鳴り、藤井さんたちはぺたぺたと足跡を残しながら走り去っていく。日差しが急に強くなって雲を貫き、陰に居たはずの私を明りの下に晒してしまう。

貧血と羞恥にのぼせていると、目の前にさよちゃんが立っていた。ひとり水着の群れから外れた姿をぼんやりと見上げていると、トイレ、と短く言ったさよちゃんは私の手首を掴んで走り出す。その細い指からは信じられないような強い力で握られた手首から、激しく打つ脈の音が腕を伝って汗が零れた。


グラウンドの隅の掘立小屋は、五年生以上の女子が着替えに使う場所だ。中に入ると、ロッカー代わりにつかう木の棚が壁の三面を覆っている。半分壊れたすのこがガタンと不安定に弾み、さよちゃんの身体から滴る水がほたほたと音を立てた。

目の前が暗くなり、眼球の奥が引き摺られるような感覚がして頭が後ろに仰け反った。すのこがまた音を立てて弾み、足の指を軽くぶつけたけれどかろうじて転ぶことはなくて背中を棚に預けたままずるずると座り込む。

さよちゃんの白い足が目の前に二本。色が白くて細いから、処理されていない無駄毛が不相応に濃く見える。濡れて規則正しく同じ向きに寝ている毛を、逆立ててみたくて指でなぞった。一層濃い塩素のにおいが漂い、見上げるとさよちゃんが水着から窮屈そうに腕を抜き出すところだった。左腕から右腕、いつも肌着の脇から覗く薄い胸が剥き出しになり、あばらのくぼみの下にあるちいさなおへそ。腰骨のそばでわだかまる水着を両手で掴むと、一気に腿の半ばまで引き下ろす。目に飛び込んでくる、さよちゃんの裂け目。

陰毛で隠れないぶん、自分のそれよりも長く見えるふくよかな溝を見詰めているとさよちゃんは片足ずつ上げて水着を引き抜いた。それをそのまま私の頭の上へと掲げ、細い指でぎりりと水を絞り出す。

不衛生なそれは頭から私に滴り、流れ落ちて頭皮を伝う。髪の間を縫い、生ぬるく温まりながら鼻筋を通って開いたままの口へと落ちていく。あのね、と語尾の上がったさよちゃんの声。それを聞くと無口になる私。声どころか動く意思さえも奪われて、開きっぱなしになった口から唾液と混ざったプールの水があふれだして体操着の襟元を濡らした。夏の日差しが凹凸のないさよちゃんの身体に影を色濃く落とし、私は子どもではなくなった。


ナナさんがいなくなったのと、さよちゃんが変質者に遭ったのは同じ夏だった。あの日、家の鍵がないと言ってうちに来たさよちゃんは既に何かを知っているように落ち着いていた。冷静というのではなく何かはりつめているような、いっぱいいっぱいの表情でうちの晩ご飯を食べた。うちのお風呂に入り、うちの布団に入り、つぎの朝になってもさよちゃんは自分の家に帰れなくて、夜から落ち着かなかった私の両親がついに警察に届けた時、ナナさんは遠くに行ったあとだった。

ナナさんの両親が来たりさよちゃんのお父さんだという見たことのない人が来たり、しばらくうちの団地は不自然な静けさと騒々しさを行ったり来たりしていたけれど、さよちゃんはいつも通り学校に通った。藤井さんや辻さんは他の子にはさよちゃんのうちのことを色々と話していたみたいだけれど、さよちゃんの姿を見てもからかおうとはしなかった。それどころか彼女たちは押し黙るとき、うんと優しい顔になる。


「さわらないでっ」


ナナさんがいなくなった後、はじめて家に入ったさよちゃんは金切り声で叫んだ。大人のひとが持ちあげたそれは、モモのなきがらだった。そこに納められていたはずの骨は綿ごと抜き出されていて、からっぽになったもうモモではないクマがさびしそうに痩せ細り横たわっていた。あの声は大人に向けられた声だから、私もさよちゃんにさわれない。口を開こうとする私を、さよちゃんは睨めつけて何も言えなくしてしまう。さよちゃんの目は声を出さずに叫ぶ。あんたにはわからないわからない、わからない。


習い事の帰りに変質者に遭い、泣きながら近所のおばさんに保護されたさよちゃんは、スカートを引っ張られたのだと言った。ナナさんがいなくなっても泣かなかったさよちゃんが、それくらいのことでどうして泣いたのか私にはやっぱりわからなかった。

だから私は、さよちゃんが変質者に遭ったという道をひとりで歩いた。ひとけのない路地を何度も、ゆっくりと。らくがきの一字一句を覚え、表札の文字の色褪せ方や、誰が世話をしているのか真新しく赤いよだれかけをつけたお地蔵様の表情ひとつひとつに見慣れる頃、背後からゆっくりと近づく自転車の音を聞いた。

ふりむけば逃げられてしまうような気がして、わざとゆっくりと歩いた。一定のリズムを刻んでいたペダルの音に混じり、キィ、キィ、とブレーキのかかる音がする。速度を落とした自転車はカラカラと引き摺るような音を立てて迫る。あの日のさよちゃんと同じいっぱいいっぱいの表情でいたいのに、脚が震えておぼつかない。わかるよわかるよ、わかるよ! さよちゃんに叫び返したいけれどもう出来ない。少しずつ歩みを速めても、自転車の音は変わらない。キィ、キィ。まるで遊ぶように、回るタイヤの音とブレーキの音を交差させながら少しずつ距離は縮んでいく。息が上がり、汗が口の中に落ちてくる。力いっぱい駈け出すと、降りだした雨で足が滑った。

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