素描「水とピアス」
終電も過ぎた午前二時。こんなところでもつい、お金を渡すとき「お願いします」と声を出した私と、明らかに酔った奇声を上げる鷲田さん。ふたりぶんの女の声を聞きとめたフロントのおばちゃんは、すりガラスごしに「何やってもいいけど、ゲロだけは撒かないでよね」と言った。何って、と思いながら鍵を受け取る。私たちはただ、眠る場所ときれいなトイレが要るだけだ。
定員二名、と書かれたドアの鍵を回す。失恋のやけ酒で酔った鷲田さんは、ここに来るまでの道で二回、吐いた。鷲田さんがこもったトイレからは、水のはじける音とその倍くらいのゲエゲエ言う声が、鍵のないドアごしに聞こえてくる。私には行き場がなくて、とりあえずベッドに座る。枕もとに当然のような顔で居座るパッケージを、なるべく見ないようにしてゴミ箱に捨てた。
卒業して一年、高校の知り合いと会ったのはこれが初めてだ。あとはもう誰とも交流がない。きょうちゃんとも、一度も会ってない。
きょうちゃんとは高校で知り合った。行きと帰りが一緒で、部活が同じ。それだけのことで、私たちは仲良しに思われた。きょうちゃんが休むと、みんなが私にそのわけを尋ねる。はじめは、それが嬉しかった。
きょうちゃん。色が白くて、痩せている。大人しく見えるけどすごくたくさん話す。血液型、家族構成、ペット、いとこがどの大学にいるかということや、両親のなれそめ。自分で話して自分で笑う、きょうちゃんの話はあんまり面白くない。
私がきょうちゃんを知らないと言ったところで、誰が信じてくれただろう?
きょうちゃんに関することはたくさん知っているけれど、きょうちゃんのことはなにも知らないみたい。きょうちゃんとしたこと、きょうちゃんといて感じたことはすべて、記憶じゃなく記録になってしまう。実感がわかない、きょうちゃんといるとなにひとつほんものじゃない。借り物みたいな頭は、きょうちゃんへの好きと嫌いをくるくる入れ替える。きょうちゃんを誰よりも良いと思ったし、きょうちゃんに誰よりも会いたくないときがあった。
そんな私をきょうちゃんに繋いでいたのは、後輩の中川だった。おばさんじみたむくんだ顔、そこに食い込む眼鏡と、まっすぐに切りそろえた厚い前髪。きょうちゃんを慕っていて、昼休みによく教室を訪ねてきたけれど、きょうちゃんのそばに私がいるときは入ってこなかった。私は中川に勝っているのが楽しくて、昼休みは欠かさずきょうちゃんのそばにいた。
朝、いつも乗る電車にきょうちゃんがいる。座席の端に腰かけて、たいていうつむいているきょうちゃんは、乗り込んでくるはずの私を探さない。私が声をかけるまで、きょうちゃんは絶対に顔を上げない。
隣の車両にいる中川を、確かめてからきょうちゃんの肩を叩く。
盛大だった水の音がやんで、いつの間にかトイレは静かになっている。様子を見に行くべきか悩んでいると、細くおしっこの音が聞こえてきた。なんとなく気が抜けてベッドに横たわる。のりで固まったシーツからよそよそしいにおいがした。
「まりちゃあん……ちょっと来てえ」
ひととおり出し切ったらしく、いくぶんかはっきりした声で呼びかける。トイレのドアが開いて、中から鷲田さんがじっとこちらを覗いていた。剥げた化粧がちょっぴりホラー。
「流れなくなった」
鷲田さんと入れ替わるように中に入る。ハンドルを押しても引いても手ごたえはなく、からからと揺れるだけだった。便器の底で、黄色い水たまりにトイレットペーパーが浮かんでいる。
昼休み。女ばかりの教室は騒がしい。スカートに落ちた食べかすをはたいたり、髪をとめたりと忙しくしているクラスメイトのはしっこで、私たちだけがしゃべらない。隣り合ってお昼を食べた後、きょうちゃんはイヤホンで音楽を聴き、私は突っ伏して眠りのポーズをとっている。顔をきょうちゃんに向けていたら、きょうちゃんが片耳からイヤホンを外して「聴く?」とたずねた。私が断ると、そう、となんだっていいみたいな返事をして歌の世界に帰ってしまう。断ってから私は、私を置いてでもきょうちゃんの聴きたがるその歌をちょっと、聴いてみたい気がした。けど、思った時にはもう遅い。
教室の外に中川がいる。その視線に心を砕いているのはたぶん私だけだ。やっぱりイヤホン、借りればよかった。なんて。
イヤホンを戻すとき、きょうちゃんが耳にかけた髪の隙間から、ちいさなピアスが見えた。うすい耳たぶに目が行く。下のほうだけがぽってりと厚く、ピアスの周りだけがほんのりと赤い。開けたばかりかもしれない。
「マリ」
きょうちゃんがこちらを見ないまま名前を呼んだから、私は思わず跳ね起きる。別に悪いことをしているわけじゃないけれど。何、と落ち着きすぎた声で返すと、いつの間にか近くに来ていた学級委員が席替えのクジを差し出した。引いてから私は、きょうちゃんの番号が気になった。けれどきょうちゃんが気にも留めていないふうだから、私もなんでもない顔をした。
タンクに水が溜まるまで待てば、流れます。そう結論を出して振り向くと、鷲田さんは洗面台に突っ伏していた。鷲田さんに話してみようかと思う。誰にも言えなかったこと。あれほどそばにいたきょうちゃんのこと、何もわからなかった。あのうわさが流れてから、部活のひとは私に会うと皆同じ顔をするようになった。大丈夫よって顔、わかっていますよっていう、余裕の顔。鷲田さんだけが唇を結んで、余計な感情のない顔で私を見ていた。
この人だけはちゃんとわかっているかもって期待して、それでも近づけずにいた鷲田さんから今日呼ばれたこと、嬉しかったんだ。たとえそれがやけ酒のお付き合いでも。
言葉をかけるタイミングを計る。鷲田さんが、ゆっくりとこちらに振り返る。目があったら、話し始めよう。
「あ……」
私の開きかけた口が、ひゅっ、と息を飲み込む。鷲田さんの目は、酔いとは違う熱で潤んでいた。
冬の朝。いつものように電車に乗り、きょうちゃんの前に立つ。膝の上の文庫本にいつまでもしおりを挟まないきょうちゃんの頭をただ見ていた。肩を叩く前に隣の車両へ目をやる。中川はいつもの場所にいなかった。
車両をつなぐドアが開く。それは、これまでになかったこと。二枚続いたドアのどちらも開けっ放しで、風がするどく吹き込んでくる。電車の揺れで閉まったドアが、一度ずつ派手な音を立てた。
顔を上げたきょうちゃんは、中川を見ておはよう、と静かに笑う。しおりを片手に握ったまま、読みかけのページに指を挟んだ。
中川は明らかに私を視界から外していた。眼鏡ごしに、ひたむきな目できょうちゃんだけを見ている。決して大きくはないその目は、瞳だけが広がったように暗く、熱っぽい。中川の息が上がるのに、動揺したのは私だけだった。
電車がとまり、中川がこちらに向かってつんのめる。受けとめた私を押し返すようにして、中川はなんとか立っていた。降りる人が、中川の肩にかけた鞄にぶつかっていく。
中川が泣いた。
きょうちゃんは本にしおりを挟んだけど、それは電車から降りるためだった。鞄に本をしまうきょうちゃんが顔を上げるよりも先に、中川は走って行ってしまった。棒立ちの私の前をきょうちゃんが身軽にすり抜ける。発車のベルを聞いて、私もやっとホームに降りた。
「何、今の」
「さあ」
私ときょうちゃんがレズビアンだと、部活で言われ出したのはこのあとだった。
洗面台に寄りかかったまま、鏡をにらんでいる鷲田さんに同じ質問を繰り返す。
「なんで私を呼んだの」
鷲田さんは答えない。なんで、私を、呼んだの。言葉をぶつけるとめまいがして、私はベッドに寝転がる。もしも触ってきたら、ぶっ殺す。
トイレからひとりでに水が流れ、ごぼごぼと苦しい音がする。
皆が椅子を引く音で気が付いた。居眠りをしたまま、授業は終わってしまったらしい。トイレに立つと、廊下で同じ部の子たちに会った。もう夕方に近い時間なのに、おはよーう、なんて作った声で笑いかけてくる。
予鈴が鳴り、鏡にかじりついていた女の子たちがあわただしく駆けもどっていく。髪の毛と水滴でひどいさまになった手洗い場を見つめながら、手を洗っていると個室から人が出てきた。きょうちゃん。不意に、喉元まであの子たちと同じおはよーう、がせりあがってくる。けど、言えない。私たちは朝からずっと一緒にいたんだ。
きょうちゃんはすこし驚いたような顔で私を見ていたけれど、来て、と小さく言って個室に引き返す。返す言葉もなくて、言われるまま中に入るときょうちゃんが鍵をかけた。
「これ」
髪を耳にかけて、ピアスを見せながら言う。イヤホンを断ったあと、私が見たちいさなピアス。
「一か月前に開けたのね」
個室は一人で使うものだから、二人で入るともちろんせまい。洋式トイレの蓋にひざの裏を押しあてるようにして、窮屈な空間に立つ。きょうちゃんとの適切な距離がわからない。
「かたくて取れないの。取ってくれる?」
私の答えを待たずに、きょうちゃんの指がピアスの頭部と耳の裏のキャッチをつまんだ。もうずっといじりつづけていたらしい、赤みの広がった耳たぶがくねる。ピアスは行ったり来たりするだけで、なかなかうまく外れない。
「待って、私がやるから」
きょうちゃんの指と代わる。くりくりと回したり少し押してみたり、格闘してみたけれど頑丈なファーストピアスはなかなか外れない。
「思い切りやって、痛くないから」
そうきょうちゃんが言ったから、私は精一杯の力を込めて引っ張ろうと努力した。でも、他人の傷に触れる恐さが邪魔をしてうまく思いきることができない。指先に集中する。きょうちゃんの手が、反対側の耳に触れた。
ぶちっ、と金具の外れる音がして、ピアスが外れた。自由になった私の手は、真横の壁にぶつかった。きょうちゃんは素早いしぐさでトイレットペーパーを巻き取り、穴の出来た耳たぶをきつくつまんだ。はじめ濃く付いたまるい血のしみは、きょうちゃんがトイレットペーパーを持ちかえてもう一度ぎゅっとつまむと薄くなってすぐにつかなくなった。
きょうちゃんは血の出なくなった耳たぶをつまんだまま。私はきょうちゃんに刺さっていたピアスを握ったまま。お互いしばらく黙っていた。何か言うべきことがそこにあって、お互いただ言葉を見つけられずにいるような。お互いの心の模様は分かるのに、言葉だけがどこにもない。
「大丈夫?」
「うん。ねえ、反対側も取って」
「それは」
勘弁して、と言い終わらないうちに本鈴が鳴った。誰かの走る足音が、廊下を通り過ぎてゆく。
今ならきょうちゃんに言える気がした。きょうちゃん、私、きょうちゃんとやり直したいの。やり直すってつまり、はじめからまた組み立てなおすっていう意味だけど。やりなおしたい、という言葉は、友達にもちゃんと使えるだろうか。
まごつく私に、きょうちゃんが優しく笑いかける。次に続いた言葉が信じられなくて、私は個室の外に抜け出した。手洗い場の鏡、それを覗き込む顔は瞳ばかり大きく、眼鏡の奥で重い瞼を見開いて、じっとこちらを見返している。
「ありがと、中川さん」
叫び出す寸前で目が覚めた。体を起こし、辺りを見回す。ブラインドで塞がれた窓から、わずかな光が漏れている。そばに鷲田さんはいない。お風呂からもトイレからも、鷲田さんの音はしなかった。枕に倒れ込み、乱暴な寝返りを打つと擦れた耳が痛む。痛い。なにも、私に、触れてくれるな。
耳をつかむと熱い。高校を卒業してすぐ開けたピアスは、まだ膿んだり腫れたりしてどうもおさまらない。やっぱり、開けるんじゃなかった。目を閉じて、すぐに開ける。もう、おなじ夢は見たくない。
気を張って開いていた瞼が緩み、ゆっくりとまどろみ始めたころ、備え付けの電話がけたたましく鳴った。無視していると、トイレから水の流れる音がした。
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