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レゴでアドリブ演劇あそび

わたしはずっと、子どもとごっこ遊びをするのが嫌いだった。

ごっこ遊びとは、何者かになりきってやり取りをする遊び。ヒーローごっことかおみせやさんごっことか、おままごととか。その類のあそびはとても疲れるものだと思っていた。

なぜなら、展開の仕方がわからなかったから。ヒーローや戦いごっこは、ただ敵が来て剣を振り回す単調作業だと思っていたし、おままごともただ料理を作って出すだけの業務だと思った。

それはまだ子どもが小さくて、大人や架空の人物の真似をするのが主たる目的だったからかもしれない。

でも、それだけじゃない。互いに楽しむ方法を、わたしが全然わかっていなかったからだ。

下の息子が7歳になってようやく、ごっこ遊びの楽しみ方がわかった。

わたしができるごっこ遊びは、即興の演劇、もしくはアドリブコントなんだということに気づいたんだ。

苦しかったのは「遊んであげる」という姿勢だったから

次男が「おかあさん!まちやろう!」と声をかけてくる。「まち」とは「レゴで遊ぶ」という意味の言葉だ。

最初は、レゴで簡単な町を作り、そこで人が生活する様を再現する遊びだった。朝になったら「おはよう」夜になったら「さよなら、おやすみなさい」、お店に人がきたら「いらっしゃいませ!」という、繰り返しの日々。

最初は正直、頑張って付き合っていた。でも、どうも楽しくないし眠くなる。

そこでわたしは、子どもの遊びに付き合う姿勢を捨てて、本気でやることにした。ここでいう本気とは子どもに合わせて遊ぶのをやめたということだ。

次男はすぐに悪者を出してくるので、結局単調な戦いごっこになる。それがとても嫌だったわたしは

「この人が悪いことをするのは、ひとりで寂しいからだ」

という設定を作ってみた。すると次男は

「公園にくれば、この人にも友達ができるかもよ」

と言い、公園を広くすることにした。花を植えてベンチとトイレをつくり、何かのおまけでもらった犬の人形を走らせる。

するとお腹が空いてくる。食べ物屋さんが必要だよね、という話になり、お弁当屋さんをつくる。

次男は「この悪い人は、お弁当屋さんで働いてもらおう」と言う。なるほど、働く楽しさがわかれば悪いことをしなくなるかもしれない……なんて言いながら。

こういう感じで、設定を細かく作っていくと、次に必要なものや作りたいもの、ストーリー展開が一気に開けるようになった。

最終的には、公園、民家、お弁当、肉屋、自動車修理工場、インターネットの会社、駅、温泉、放送局、警察署、病院、銀行などができた。どれもチープだけど、ストーリーの中でちゃんと機能するからおもしろいものだ。

この遊びがおもしろいと思えるようになったのは「遊んであげる」「子どもの相手をする」という視点を捨てたからだと思う

作りたいものとか、必要だと思ったものは勝手に作り「次男これ見て!!」「これどう?すごくない?」とかドヤ顔したりするまでになった。もう、どっちが子供かわからない。

これまで、頑張って遊びにつきあっていたときは15分が1時間にも感じられた。でも今では1時間、があっという間に過ぎ、みっちり遊べる。

32歳にして、レゴに没頭できるようになったのだ!

そしてこのやり方をはじめて3日目のこと。ごっこ遊びは、即興演劇に変化した。

のめり込むと「心の描写」が増えてくる


ごっこ遊びも、のめり込むと心の細かい描写が出てくる。

相変わらず次男は泥棒や悪役を出してくる。何度更生させても、しつこく悪役を登場させる。

あるとき、まちの大事な見張り役のオオカミが、悪役にやられて死んでしまった。みんなで埋葬の儀式をして、おいおいと泣く。しかし、そこで次男は「ちゃりーん」という効果音をつけて、オオカミを生き返らせた。

なるほど、そうきたか。みんなの悲しみが届いて、オオカミに奇跡が起こったという体で話を進める。

その後も懲りずに、同じ悪役人形を登場させる次男。わたしは早く戦いのシーンを終わりたいので、しこたまやっつけにかかる。

すると次男

「まて!オオカミのハートを取り戻させたのはこいつなんだぞ!?」と言い出した。

先程オオカミを死なせたときに、みんながおいおい泣いてお葬式をしたことと、今の格闘シーンをつなげて新たな展開を作り出したのだ。

「え……?どういうことだ?」

わたしもその設定に乗る。勝手な解釈だが、次男は「この悪役にも人の心がある」みたいなことを考えたんじゃないかなと思った。

このとき思ったのは、本気で取り組んで楽しもうとした結果、没頭できるというだけでなく、ストーリーの伏線を張ったり、情緒的な展開を作ることもできるようになるということだ。

だんだん「レゴあそび」ではなくて、即興の演劇やアドリブコントのようになっていく。次男は大興奮し、なんども顔を真っ赤にして笑う。わたしも腹の底から笑ったり、しんみりしたり、ハッとしたりする。

以前、息子たちと3人で戦いごっこをするのがつらかったときのことを思い出した。どうやればいいかわからない。つまんない。でも、わたしだって一緒に遊びたい……

そこで、大河ドラマのサウンドトラックを流して、時代演劇風にやってみることにしたんだ。

そしたら当時小学校4年生くらいだった長男が、本当に泣いちゃったんだよね。弟が悪代官(わたし)に斬られ、悲しみに打ちひしがれるシーンに感情移入してしまって。ここは劇団かと思った、あのときとよく似ている。

ごっこ遊びに細かな設定を作って、舞台を固めて、ストーリー作りを繰り返していくと、自然に細かい心の描写が出てくるんだというとがわかった。複雑なコミュニケーションが生まれ、感情を込めることができる。

ごっこ遊びって、こうやればよかったんだ。

人の波長やテンポと、遊びの手応え

この「まち」には「何をやってもおもしろく返ってくる」という信頼感がある。お互いが自分で考えたことを自由に表現することで、化学反応が起きるのだ。こういう遊び方は、気心が知れていて、波長やテンポが合わないとできないんじゃないか、と思う。

自分の子どもの頃のことを思っても、人前で何かを演じ切るのが恥ずかしかったり「そんな展開おかしい」って言われちゃったりする。子ども同士だと「そういうのやりたくない」もある。わたしが「悪役ばっかり出してきてしつこい」とか思うように。

でも、わたしと次男の「まち」には「自分が何をやっても、相手が返してくれる」という世界があるんだ。

次男はわたしに「そういうのなし」とか言わないし、わたしも言わない。何をやっても、それなりにおもしろい展開になる(する)という暗黙のルールがある。

長男と2人でこういう風に遊べたことはなかったし、夫がこの「まち」に参加しようとすると、次男は全力で断る。「まち」には、すでに数日間の歴史があるし、独特の波長とテンポで成り立っているのだ。

それぞれに「この人とこの遊びをやると楽しい」「この遊びは複数人だとうまくできない」「これは2人きりだとつまらない」「どうやっても無理なもの」など、組み合わせごとの手応えあるんだ。

そこにいる人同士が、自由に自己表現してOKな遊び方を見つける努力は、後々の自分を救うような気がする。

自分が、子どものまんまで遊べるものをみつける

わたしがこんなことを考えるのは、子どもと遊ぶのを、イヤだな、面倒だって思いながらやりたくないからだ。

自分が楽しくないとダメだから。

子どものためではなく、イヤだという感情に耐えられないからなんだ。

でも、「遊んで遊んで」とせがまれる。子どもには「これを一緒にやって!」という要求がある。要求を飲んであげたい気持ちと、やりたくないって気持ちがせめぎ合う。

だから「この子と、こうやって遊ぶのが楽しい」「〇〇をやるなら✕✕でやると楽しい」というマッチポイントを探す。お互いの波長が合う遊びを見つけるんだ。兄弟がいれば「このメンバー全員の波長が合う遊び」が必ずある。

これは、自分の気持ちが楽になるライフハック……のつもりだったんだけど、ライフハックを超えて感動さえ覚えた。

マッチポイントを見つけるのは結構時間がかかるしトライアンドエラーだ。でも「子どもと遊んであげる」という視点を捨てることや、自分が子どもに戻って遊べることを考えるのは、わたしにとって重要なこと。

どこまで「まち」を大きくできるか、どこまで濃いストーリーを作れるのか、今後も楽しみである。


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