あの頃、不登校だった私たち……30年かけてやっとわかったことを話します。
臨床心理士の資格を持ち、講師業やカウンセリングを通じて不登校の支援活動をしている小松藍生さん。 藍生さんは、彼女自身が高校~大学にかけて不登校やメンタル疾患を経験しています。
不登校の当事者として、指導者として、そしてひとりの人間として子供たちに接している中で、最近ようやく「私たちは、どう生きていけばいいのか」ということをはっきり言語化できるようになったそうです。
そして、今回のインタビュー対談をまとめる著者も、不登校やメンタル疾患を経験しています。マイノリティ向けの記事や書籍を執筆する中で、その苦悩を言語化することに励んでいます。
私たちは、2018年に出版した藍生さんの書籍『不登校だった私が、臨床心理士になった~物語は、クレイジーな人生から始まる~』の製作がきっかけの縁。
この書籍は、藍生さんが物心ついてから不登校になるまで、そしてどのようにして自分の人生をみつけていったかを物語風の自伝として書き上げたものです。
今回は、小松藍生さんの講師業やカウンセリングの中で培った経験や信念についてお話を伺いました。
小松藍生さんが、不登校体験から得たものとは?
――昨年、不登校体験を赤裸々に書いた自伝を一緒に作ってみましたが、どのような方からの反応があったか具体的にうかがってもよろしいですか?
藍生 はい。実際に不登校のお子さんをもつ親御さんはもちろんなのですが、高齢者の方からの反響が大きかったのが印象的でした。
――高齢者の方ですか?
藍生 はい。具体的には、教員を引退された方などが「なぜ今の若い子たちは学校に行かないのか?」という疑問を持っていたようなんですね。それが私の本を読んで高齢者の方や、周囲の大人の方から「あぁ、不登校ってこういうことなんだ。なるほどね!」と納得していただけた部分があるように思います。
――昔より不登校の子が増えていて、それを容認する考え方が広まっているのは確かですよね。しかし“不登校を容認する”ということに疑問を持ってしまう人も、実際多いのでしょうか?
藍生 そうですね、多いと思います。
――私個人としては「学校に行けなくてもいいじゃないか!」と、メディアが声を大にして言うのは、ちょっと論点がズレているような気がしているのですが、藍生さんとしてはそのあたりどう感じますか?
藍生 そうですね。私も普段から、テレビやネットなどのメディアで“不登校”や“引きこもり”について語られている場面を目にすることが多いのですが、正直ちょっときれいごとが多すぎるという感想を持っているんです。
自伝を書いたそもそもの理由として「学校に行けないのが、つらくないわけがない」ということを、知ってほしいのが根底にありまして。
不登校や引きこもりになってしまう本人がどのような苦悩を抱えていて、それとどうやって折り合いをつけていくか……というところを伝えたかったんですね。
――なるほど。周囲で見ている人や経験のない人にとっても、どう心の折り合いをつけて見守ってもらうか……というところが大事ですよね。
藍生 そうですね。当事者は「あなたは、人よりつらいんだね」と言って欲しいわけではなく、心の折り合いをつけるために「学校に行けなくても、他に道はあるのだ」と言い聞かせているだけです。
“不登校は不幸じゃない”“学校に行くのが難しい子供もいる”などと、メディアはいろいろキャンペーンを打っているわけですが……それって当たり前なんです。
みんな普通がいいに決まっているんですよ。みんなと同じように、普通に学校に行けたらそれはベストじゃないですか? それができないって、つらくないわけがないじゃないですか。
――乗り越えるために必要な考え方であって、開き直ることではないと?
藍生 そうですね、開き直っているわけではないです。あと、私には“乗り越える”という概念がないんです。
――乗り越える概念がない?
不登校は、正直な話一生引きずります。乗り越えるなんていう、たった5文字で片付けられるようなことではないです。
――確かにそうですね。それは、どんな挫折経験も同じなのかもしれないですね?
藍生 そうですね。私は、挫折経験を“乗り越える”なんていう一言で片づけてくれるな!と思っています。病気ではないけれど、病気と同じような”扱い“をしていくべきだと思っているんですね。一生付き合っていくものというイメージで、間違いないと思います。病気だと言っているのではなく、あくまでも病気と同じ“扱い”です。
前向きな姿勢は「苦悩」から生まれる
――多様性を重んじる風潮や、それぞれの個性を大切にする考え方が広まっている一方で、どうしても“人と違うこと”に劣等感を抱いてしまう人はまだまだたくさんいると思うんです。
私もその中の1人で、挫折経験を前向きに捉えられるときと、そうでないときの差がとても激しいのですが、藍生さんはその点どうでしょうか?
藍生 いやぁ、正直私だって普通のほうがいいです(笑)みんなと一緒のほうがいいです。だって楽ですもん。楽なのですが……今考えてみると、それはつまらないです。つらいことがあると、その分“楽しい”感覚が強くなります。
つまり、楽と楽しいは絶対に一緒にはならないんです。人生って、”不安だけど楽しい”か”不安はないけど単調でつまらない”かの二択だと思うんです。
前者の場合、刺激を求めると必然的に苦しくなります。後者は、楽だけどつまらない。今の私だったら、前者を選びます。不安だしつらいですけどね。
――そこで巻き起こる、不安やつらさ、迷いなどは、悪いものではないと?
藍生 はい。不安やつらさの多い人生は、光と闇に例えることができます。光が多すぎると、光の明るさを正しく認知できません。闇も同じで、闇に闇を重ねても闇を認知できません。どっちもあるから「こっちがいい!」と言えるんです。光も闇も、ふたつあってちょうどいいんですよ。
――ネガティブな自分も、肯定していい……ということでしょうか?
藍生 そうですね。闇が多いと、その分認知できる光の量が多いです。だから、闇が多いのはいいことなんですよ。日傘をさしているときのことを思い浮かべてみればわかると思うんですが、光がある限り影はどこにでもできます。闇が多ければ多いほど、光の明るさは強くなります。
光だけ、闇だけのどちらかを手に入れることは、不可能なんですね。だから、いいことも、悪いことも、ポジティブな感情も、ネガティブな感情も、どっちも大切なんです。
――今、ポジティブ心理学ってすごく流行っているじゃないですか?私は正直なところ、ポジティブシンキングに違和感を覚えるんですが……
藍生 はい、私もポジティブ心理学はあまり好きではありません(笑)
確かに、褒めたり前向きな言葉をかけることは、大事です。でも、ポジティブにポジティブを重ねても、意味ないんですよ。だから、すごくきれいごとだなって思っています。
――きれいごとですかぁ~!
藍生 だって、ポジティブな状況でポジティブな気持ちになれるのなんて、当たり前じゃないですか。むしろ、ネガティブなときにどれだけポジティブを探せるかの方が大事です。
このときに生まれる「苦悩」をポジティブという簡単な言葉でまとめることはできません。
――すごくわかります。
藍生 「ポジティブシンキングって、考えれば考えるほど楽になれるんだよね」と誤解されていますが、違いますよ。ポジティブを生み出すのは、苦悩です(笑)光と闇と一緒なんです。
――例えば、ネガティブな言葉を発すると思考もネガティブになるし、ポジティブな言葉を発すると潜在意識からポジティブになれる……という通説が、かなり強くなってきているように感じるのですが?
藍生 言葉だけ変えても、即効性はありません。ネガティブな考え方の人は、目線も伏し目がちだし、姿勢にも表れていると思います。体がうつむいていたら、意味がないんです。
しかも「口先だけじゃダメだな」と、いちばん感じているのって自分自身ですよね。だから、無理やりポジティブを作り出しても、自分自身は「あぁ自分、口先だけで言ってるな」「本当はそんなんじゃないのにな」と本当の胸の内がわかっている。結局、ネガティブな思考が生まれていますよね。
――では、ネガティブ思考な人が、少しでもポジティブになっていくには、一体どうしたらいいのでしょう?
藍生 そのときに感じたネガティブな気持ちを「これってなんだろう?」と見つめることですよね。紙に書いてもいいですし、誰かに話すことで解消されていくんです。だからこそ、カウンセリングというものが存在するわけで。
――それを繰り返すことで、ポジティブになっていく?
藍生 いえ、今の理屈で言うとそもそも”ポジティブになる”という表現も少し違います。ポジティブとネガティブは、ふたつ一緒に存在するので、ポジティブだけを目標にする必要はありません。
――なるほど。考え方がガラッと変わった気がします。
なんで 「好き」「嫌い」 に振り回されないの?
――私は、言葉の重要性を見失ってしまうことがあるんです。例えば、人の褒め言葉を素直に受け止められなかったり、美しい言葉を重ねれば重ねるほど、重く感じることがあって……
藍生 なるほど。確かに、人からの言葉って突き詰めていくとまったくあてにならないことがあります。
例えば「私あなたのこと嫌い!」と言われたら「どこがどう嫌いなの?」と聞いてみます。
すると相手は「私はあなたを見ていて思うんだけど……」なんて話し始めたりするんですよね。でも「私のことをどこまで見ているの?」「私のことをどこまで知ってるの?」という疑問しか残りません。
その人は”私のすべて”を知っているはずがないので、そもそも前提が間違っているんです。
――確かに、批判や中傷に対しては「それぞれのどこまでをわかった上での発言か?」という点に目を向けると、受けるダメージは少ないですよね。では”好き”という言葉に対してはどうですか?
藍生 同じですよ!「好きって漠然としすぎてるから、もっと具体的に教えて?」と率直に言います(笑)ただ、あまりよく知らない間柄なのに「好き好き!」って言われるとちょっと引いてしまったりしますよね。
「こういうところは好きだけど、ここはちょっと意見合わないわ。」と具体的に言ってもらえた方が、言葉に対しての実感がわきますよね。100%好きになってくれる人なんて、いないですよ。
同じ人間はひとりとしていないんです。ということは、100%合うということはあり得ないんですよ。
――それもやはり光と闇と同じですね! 好きと嫌い、ふたつの要素があるからこそお互いが引き立つのかもしれません。
なんで人間関係を楽しめているの?
藍生 人間関係の”好き嫌い”に関係しているんですが、やっぱり100%好きという感情を出してくる人は、人を見ていないですよね。
――人を見ていない?
藍生 相手が何を求めているかではなく「自分がどう見られるか」の方が先にきている人が多いんですよ。
私、座右の銘はいくつか持っているのですが、その中でもとても大事にしていることがあって……
”遠慮はいらないけど、配慮はいる”という言葉なんです。最近の人は、遠慮はするんですけど、配慮がないんですよね。
――逆になっている……?
藍生 「私はお酒が飲めないので、飲み会は欠席させてもらいます。」これは遠慮です。
「実は私はお酒が飲めないので、挨拶のときだけ参加させていただきますね。」これは、配慮です。
――なるほど、職場関係、ビジネスのシーンでよく見る光景ですね。
藍生 はい。私が実際に仕事でお会いする方で、バシバシものを言うのになぜか好感が持てておもしろいと感じる方がいるんです。その方は、人に遠慮なく話を振って場を盛り上げますが、なぜか嫌な感じがまったくないんですよね。その方に「〇〇さんって、遠慮はないけど、配慮のある方ですね~!」と率直にお話したら「うまい!」と言ってすごく喜んでくれたんです。
――その方は実際、配慮することに気をつけていらっしゃるからこそ、気づいてもらえて嬉しかったのでしょうか。
藍生 そうなんですよ。立ち回りが上手な人や、ユーモアのセンスがある人はやはり、ひとりひとりの顔を覚えることや、人の話した内容を聞き逃さないということを徹底しているんです。
常に“関わる相手がどんな人か”にアンテナを張っていることが、自然なのに好感の持てる振舞いに繋がっているんです。
――なるほど、配慮ができていてこその本音やユーモアセンスなんですね。
遠慮が先にきてしまうのはなぜなのでしょうか?
藍生 遠慮と配慮がイコールになっている方が、圧倒的に多いと感じますね。
私は、相手がどんなに地位のある名誉教授の方でも、お話をお聞きしたい、お会いしたいと思えばすぐにアポイントを取ります。某学会の会長さんクラスの方にも、本当にお会いしたければ直接メールを送ったりもします(笑)
でも、こういう“遠慮”のない行動に対して周囲の人から「失礼な奴だ」「とんでもない」と批判を受けることもあって……実際ケンカしたこともあります。
でも、肝心の会長さんは「おぉ!いいよ!」と快く応じて下さったりするんですよ。
――すごい行動力です。前例のないことをやったりするときと、同じですね。
藍生 ただ、遠慮はしないですけど配慮は徹底します。「ご都合が合えば、ご検討ください。」という姿勢で、相手に逃げ道をちゃんと確保します。
この“相手にしっかり逃げ道を与える”というのが、配慮だと思うんです。遠慮してばかりでは、何もできないですからね。
――例えば企業の中でも、地位の高い人ほど、新人の人や現場の人たちとの間に溝ができやすい構図がありますよね。
ただ、無知な若者が、目上の方にフランクに接したり、物怖じせずに話しかけてくれることに喜びを感じる上の方も多いと思うのですが?
藍生 本当にそれって、ありますよね。周りがざわつくような接し方をする人が、実はかわいがられることも多いです。
でも、それはやはり相手を見ていないとできないことなんですよね。上司だって、自分の人間性をしっかり見て、考えて接してくれているかどうかはすぐわかるものです。
――確かに、相手が求めているものを見極めることができないと、遠慮と配慮の区別はできませんよね。
藍生 はい。私は“遠慮をせずに思ったままを伝える”ということが、最近になってうまくできるようになってきました。
学会の会長さん直々にご指導いただいたときに「私の指導を受けてみてどうだった?」と聞かれたんです。私は「いやぁ、おもしろかったです!もっと勉強したいです、ホントに楽しかったっス!」みたいな感じで、思ったままを言ったんですね。
すると、相手の方は大笑いして「あなたみたいな人は初めてだ。」と言ってすごく喜んでくださったんです。今までの人はみんな、かしこまった感じで“何か良いことを言おう”とか“認めてもらえるような感想を言おう”という感じが伝わってきて全然楽しくなかった。」とおっしゃったんです。
――確かに、逆の立場になって考えると、取り繕った感想をもらうより「楽しかったっス!」の一言のほうが感情が見えて嬉しいのかも。
藍生 そのときは本当に、単純で子供っぽい言葉しか出てこなかったんですけど、それが本音でした。
――簡単なようでいちばん難しいことかもしれませんね。
藍生 私もつい最近です。人にこんな自由な接し方ができるようになったのは。
なんで ”そのままの自分” でいられるの?
――藍生さんは、波乱万丈な人生を送っていらっしゃいますが、なぜこんなにも自然体で人と接することができるようになったのでしょうか?
藍生 それは、大人は全て正しいという考えが、崩れたからだと思っています。
今までは、大人はみんな正しくて、若者である自分のほうが未熟だと思っていたんです。それが、実際世間の人たちと接していく中で「大人でも最悪な人はいるな」とか「後輩でもすごくいい人間性を持っている子もいるな」ということに気づいたことが、今の自分に繋がっていますね。
また、講師業で子供たちを見ていても「この子は、〇〇の面はすごくいいんだけど、△△なところは自分と合わない」という部分がはっきりわかってきたんです。それは、子供だけでなく大人でも同じです。子供対大人でも、大人対大人でも同じなんだと、わかったというか。
――すべて個性であると?
藍生 そうですね。年齢でもなく、職業でも肩書でもなく、それぞれに好きだと思える部分や合わない部分があるというだけ。気にしても仕方がないと思えるようになりました。
――確かに私も、枠組みに自分は縛られていたなと、最近強く感じます。
藍生 私も最初は「どうしたらこの人に嫌われずに済むかな?」と考えながら人と話していました。人の顔色を見ながら、自分の言うことを選んでいたんですよね。でも、実は逆にそれが嫌われる理由になったりするんです。
それに気づいたとき、ものすごくバカらしくなって……。「あぁ~もういいや~!」って感じで、吹っ切れたんです。しかも、人の顔色を気にした発言って、まったくおもしろくないんですよ!
ただこれに気づくまでに10年くらいかかりましたけどね(笑)
――そこから、遠慮いらないけど、配慮はいる、が生まれたんですね。
藍生 はい。相手に逃げ道さえ与えれば、何を言ってもいいと思うようにしたんです。でも、本当にここ1~2年でようやくできるようになった生き方なんです。30年かかっているんですよ。
――私も同じ30歳ですが、最近少しずつ内面が解放されてきて、やはりここ1~2年の変化が大きいですね。
藍生 つまり、どうしてもそのくらいはかかっちゃうんですよね。だから、今悩みの渦中にいる子供や若者、そしてその親御さんたちは本当につらいと思うし、それがよくわかります。
でも、今やっていることは無駄にできないんです。無駄にはならない、ではなく無駄にできないんだと思うんです、生きている限り。
不登校支援をする中で、今若い世代の子供たちに伝えたいことは?
――今、若い世代の方やそれをサポートされている親御さんたちに伝えたいことはありますか?
藍生 はい。自分らしい生き方ができるようになるまでに30年もかかるということは、10代のうちに自分の進路や将来の方向性を決めること自体が、とても酷だということを知ってほしいです。
――確かにそうですね。私なんてまだ、この先どう生きていくかはまだ決まっていないし、見えていないかもしれないです。
藍生 私も同じです。今の仕事は仕事としてやってはいますが、絶賛進路悩み中なんですよ。だから、子供たちに決断を迫るのは早すぎるんです。
私は、講師業をしている中で子供たちに度々「なんで勉強するの?」と聞いているんですが、子供たちは誰一人として答えることができません。
――一見、子供が大人に聞く質問のようですね?
藍生 はい。私はあえて子供たちに「あなた達は、なんで勉強しているの?」「なんで学校に行くの?」と聞いてみるんです。
でも、「いい学校に入るため」「就職するため」という答えしか出てきません。じゃあ、学校に入ったそのあとは?就職したあとは?……そう聞いていくと、さっぱりイメージできないんです。
だから、私はいつも「高校~大学で進路を完璧に決められる人なんか、誰一人いないんだよ。」と言っています。
じゃあ、なぜで勉強したり、進学したりする必要があるのか?
それは、なりたいものが見つかった時に、勉強や進学をしていなければ現実問題として、その選択肢を選べないんだよということを話します。
だから、“やりたいことはないけれど、とりあえず大学に行く”というのでももいいし、むしろ立派な選択だと伝えています。やりたいことなんて、なくていいし、なくて当たり前ですから。
――素敵な指導です。“やりたいことがない”という部分で躓く若者は多いですもんね。
藍生 そうですね。考えや可能性を狭めるための進路ではないんです。自分の人生の選択肢を広げるための進路なんです。
もちろん、これは大人にも同じことがいえます。どこにだって行けるし、何にだってなれるんですよ。まぁ、今日からアメリカ人になるとかそういうことは色々と壁があるので難しいんですけど(笑)
――戸籍の問題とか(笑)
藍生 現実問題として不可能なものでない限り、本気でやりたいことに不可能なことというのはないです。
やりたいことに対してストッパーをかけているのは、その人自身が無意識にやりたくない、もしくはやらないという決断をしているんです。
――“想像できることは、実現可能なこと” といった言葉もありますね。
藍生 そうそう、その通りです。ここは厳しいようですが、子供でも大人でもできないのはあなたがそう決めたからなんだ、ということは伝えています。
子供も大人も関係なく、人生は選択の連続ですからね。
藍生さんと夏野は、同じ1989年生まれの30歳女性。不登校を経験し、人と違った道を歩んで、今やっと自分らしさというものがわかってきたように思います。
外からの評価を気にすることや、短絡的な物事の見方をしても、そのとき得られるものはどうしても“その場しのぎ”になるのではないか、と考えます。
誰かのために生きることや、誰かのせいにして生きることも、長い人生のうちどこかで経験するかもしれない。しかし結局は“自分がすべて”であるということを、今回のインタビューで強く感じました。
最後まで読んでいただいき、本当にありがとうございました。また、インタビューの掲載を承諾下さった小松藍生さんに心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
【小松藍生Profile】
臨床心理士と塾講師を兼務し、自身の不登校経験を活かしつつ子供たちの支援活動をしている。また、“自称フリー・スクール・スタディ・カウンセラー”として、フリーで学校や勉強の相談を受けるカウンセリングを行っている。著書、不登校だった私が、臨床心理士になった~物語は、クレイジーな人生から始まる~は、Amazon Kindleストアにて発売中。
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