アイデンティティをつなぐ生き方
私のアイデンティティは、文章を書くこと。そして現在、毎日文章を書いて仕事をしている。
私がやっている仕事は、実にシビアだ。
文章力に自信があっても、取引先の方の求めるものにそぐわなければ容赦なく切り捨てられる。文章力だけでなく、情報をリサーチする力、それをレポートとしてまとめる能力も重要だ。時には全く関係のない作業を追加されることもある。
文才とは、ひとつの芸術の様なものだと思っていた価値観を、大きくへし折られる。感性など、ほとんどの場合で求められない。
しかし、それでもずっとやっていけるのは、文章を書くことが自分のアイデンティティにつながっているからだ。
幼いころから、文章だけは褒められて育ってきた。それなりに評価される場面は多かったように思う。
でも、私は文章が自分の仕事になるとは思わなかったし、本気でそうしたいとも思わなかった。
本当のところ、私は服飾の専門学校に行き、ファッションデザインや洋裁の技術を学びたかった。しかし、それにはかなりの学費と下宿代がかかるためあきらめざるを得なかった。当時は、自分の目指す進路を経たれてしまったことを悔やんだりもしたが、今はそうでもない。
ひとつひとつのことを見れば、なんてことのない人生だ。
だけど、そのひとつひとつの点をつないでみると、なかなか綺麗な星座の形になっていたりするものだ。自分では自分の良さや才能に、気付かないことが多い。だからみんな、アイデンティティの点と点の結び方が分からず、人生に不満が募りやすくなる。楽しい仕事、好きな仕事に就ける人ばかりではない。人生を楽しめる人ばかりではない、そんな風潮が強くなる。
どんなこども「稼げるから」「流行っているから」「みんなやっているから」などという、ぽっと出の理由では長続きしないものだ。
例え執筆業が、稼げるジャンルの仕事だったとしても、私はそこに自分のアイデンティティを見いだせなかったら、楽しいとは思わない。やりがいは感じない。
「パチンコばかりやってて困るから、何か趣味を見つけなくちゃ。」
「今の仕事がつまらない。この先昇給もないし、嫌になる。」
そう言っている人に、いきなり文章を書いてごらんよなどと言っても、響かないし、続かない。それは、そこに本人が心を解き放てる「アイデンティティ」の存在がないからだ。
子供の頃から10代の前半くらいまでの間に出会ったものは、大人になってから必ず生きてくるものだ。
例えば、10代の頃に聴いていた音楽がいつになっても色褪せないと感じること、10代の頃に出会った映画を超える作品には出会えないこと。
あんなに嫌々ながら通っていた習い事の楽器を、大人になってから再び始めること。
昔家族と行った場所に、ふと行きたくなること。
意識していなくても、自分の幼少~10代前半ごろの記憶は「自分」となって形成されているものだ。
私はずっと周囲から評価されてきた文章を、仕事とすることができ、仕事にすることができなかった洋裁は趣味として今も続けている。そして、自分を支えてくれる。
大人になってから突如始めた趣味や仕事だって、どこかにそれに惹かれる理由があるはずだ。それは、もしかしたら自分の中の奥深くに眠っている、自我に組み込まれているものなのかもしれない。
それを掘り起こすような仕事や趣味を持っていると、すごく「生きている」感じがする。
本当にやりたいこと、本当に熱中できることは、自分の中にある。
アイデンティティをつなぐ生き方こそ、自分の人生の充実度を上げる。誰にどう思われようと、誰に何を言われようと構わない。
アイデンティティをつなぐ生き方こそ、心が震える人生ではないだろうか。
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