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一方通行のギブ

どちらかと言えば、ギブをする方である。

これは、僕がそう思っているだけで無く、周りからもそう言われるのだ。

ただ、僕は無償のギブの精神には至っていないようで、「こんなにやってあげたのに」と思ってしまう事もあるのだ。

このように気がついたのは、ここ最近の事で、どちらかと言えばネガティブな出来事によってである。

その件については、ここで書くことはしないけれど、かなり大きなショックを受けたことは間違いない。

こうやって、文章にすることで、ようやく心の平穏を保つことができているようなものである。

さて、ギブの話である。

僕は、昔から誰かの役に立つという事がとても好きだった。

まだ幼稚園ぐらいの頃に、近所に住んでいた、70歳ぐらいのおばあちゃんの農作業を手伝って、自分の家族に褒められた事は、幼い頃の記憶が少ない僕にとって、数少ない思い出である。

子供だから大した事はやっていないのだけれど、人によってはこれを、人生初の成功体験などという人もいるかもしれない。

そこからも、兄などを見ているせいか、割と素直に育ち、学校でも先生に反発するよりも、仲良くしたいと思ったし、農家だったので家族との助け合いながら生活する事にも、何も違和感は無かった。

この価値観が、今の世の中では割と珍しいのだと知ったのは、故郷を離れてひとり暮らしを始めた大学生の時だった。

大学には、様々な人が集まる。

育った環境も違うから、当然考え方も全然違う。

僕もそのひとりというだけだったのだが、大きく違うのかもしれないと思ったのが、ギブについての事だった。

僕のギブは、人よりも密度が濃かったし、距離も近かった。

僕は決して友人が多かった方でないので、そのためかもしれない。

しかし、周りは決してそうではない。

どちらかといえば、ドライだとか、あっさりしているみたいな表現の方がしっくり来る。

別に、距離感の近いギブが良いとか、ドライな付き合いが悪いとか、そんな優劣みたいな事を言いたいわけではない。

ただ、僕はどちらかと言えば、少数派の感覚を持って育ったというだけである。

結局、大学で自分の異質さに気が付いても、それを治す類のものでは無いと判断して、そのまま社会に出たが、周りとの乖離を感じる事は多くなっていく一方だった。

そして、今も昔のままギブを続けている。

冒頭で言ったように、僕は完全に無償のギブをできていないけれど、それなりに異質なぐらいはギブする事に、疑問を持たない。

しかし、今回の一件で初めて、ギブが一方通行なっているのかもしれないと、気が付いてしまったのだ。

かなりショックだった。

今まで、相手にしてきたことは、無駄であり、お節介であり、邪魔であり、価値のないものであり、なによりも自己満足だったのかもしれないと、そう思ってしまったのだ。

ただ、救いが無いわけでも無かった。

それは、そんな僕を受け入れてくれる友人が居てくれた事である。

彼らは、僕のそんなどうしようもない所を、心地良いと思ってくれているのである。

本当にありがたい事だ。

僕はこれでもギブをやめられないと思う。

それは、どれだけドライな人がいたとしても、一方で友人と同じように僕のギブを心地良いと思ってくれる人が、必ずいると思えるからである。

また、どこかでショックを受けるのかもしれないけれど、僕はギブする。

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