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裏切られても、仲間として過ごしたのは「本当」だった

胸が引き裂かれるような裏切りを感じたとき、

その人と過ごした時間も、
その人から受けた思いやりも、
自分に向けられた笑顔も、

何もかも全てが「偽り(虚偽)」に思えた。

   

お腹を抱えて一緒になって笑ったあの時間さえもだ。

「あれはぜんぶ嘘だったのか」
と、反射的に思った。

    

「あれは嘘だった」
「彼らは嘘をついていた」

そう思うことで、自分が傷ついたシナリオとしても辻褄が合い、私は私を安心させた。
だから、自分自身をダマすことは容易だった。

   

   
しかし、いくら自分をダマせても、
最後に残るのは
「彼らは心を許した仲間だった」
...という真実のみだった。

    

私がこれら真実を「嘘だと思いたい」と思った。
だから、「偽り」となっていた。

   

自分を裏切ったと心底感じたが、
あの時の彼らは「心を許した仲間」に変わりはなかった。

あのときのように繋がりが見えない今、
"仲間"と呼べるのかわからないが。
だが、あの時間は、たしかに"仲間"だった。

    

私は、仲間と過ごす時間が自分が思っていたよりも好きだった。
自分が思っていたより、私は私のことが好きだったみたいだった。

裏切りを感じたときは、自分も仲間のことも心底嫌いになった。
仲間と出逢ったお陰で、自分を好きになれたことも忘れていた。

  


   
「あのとき、たしかに仲間で大事な存在だった」
変わり得ない事実だった。

─こんなにシンプルで、大事なことに気づくのに、どれだけ時間がかかったのだろう。

   

仲間を失ったと感じた私は、自分が思っているより遥かに傷ついていた。

─自分の正直な気持ちであり「真実」に気づくのに、どれだけの時間を要したのだろう。

─どれだけ自分の感覚を鈍らせていたのだろう。

    

   

    

"大事なものを失ってから気づく"とはよく言うが、自分は無関係だと思い込んでいた。

どこかで、陳腐だと思っていたのかも知れない。

しかし、自分も"その類の人間"だったみたいだった。

私が裏切りに遭ったと思った後に失っていたのは、"感情を自己表現する自分"だった。

   

   

   

"裏切られた現実"も、自分が作り出している

ただ傷心していた間は、自ら「虚偽」を作り自分の心を守った。
だがその後は、痛みに慣れて耐性がついた。
だから、自分を守らなくても良くなった。

「虚偽」を作り自分を守らなくても良くなった後、私は再び裏切りに遭わないために、「真実」が知りたくなった。

「真実」を知るために、自分で自分を疑った。
内に目を向ければ向けるほど、自分が作り出している"不本意な現実"がよくわかるようになった。

「潜在意識(無意識)ってこういうことなのか」と実感した。

   

気づく前は、
「裏切られた」という現実に、自分の気持ちが支配されていた。

気づいた後は、
奥底に「仲間でいたかった」という望みがあることを認知した。

   

自殺や他者批判、自責などの"不本意な現実"を目の当たりにし、「繰り返したくない」と望むとすれば、私たちは、自分の内側に目を向け、自分の行いを振り返り、探求していく必要がある。

読んでくれてありがとう、ではまた!

  

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