all of the long nights - 夜明けのすべて【ネタバレあり】
「夜明けのすべて」を再び鑑賞してきた。胸がいっぱいになる。ずっと好きな作品として名前を挙げることになるだろう。開始すぐから涙が止まらなかった。
封切りは2月9日だったので、もう1ヶ月も経つ。上映館が減ってくる頃合いだから、そろそろ多少ネタバレを含んだものを書いてもいいのかなと思っていた。
ところが渋谷シネクイントでこの週末から上映されるらしい。リピートしたい人がきっと渋谷に集まるだろう。そういう魅力のある作品だと感じる。
以降の記述にはネタバレを含む。鑑賞前でまっさらな気持ちでありたい人には全く不向きなので、そっとこのページを閉じてもらえたらと思う。
山添君
藤沢さん役をつとめた上白石萌音さんの演技は言うまでもなく素晴らしいが、今作でひきつけられたのは山添君を演じた松村北斗さんだった。
序盤の素っ気ない態度からラストの笑顔までの心情変化、そのきっかけとなるヘアカットのシーン。そのいずれも、どの瞬間も「山添君」が生きていた。役を生きるというのはまさしくこういうことなのだと、目を見張った。
何本も携えられた炭酸やガムは、気分を少しでもすっきりさせたいという拠り所であり止まり木だ。これさえあれば、と思わせてくれる些細なモノたち。それらに触れる時の自然さ、所作のあらわす表現のひとつひとつが「山添くんの毎日」の中にしっくりと溶け込み存在を成している。
抑制のきいた静かなトーンの中に、僅かに揺らぐ苛立ちと現状否定。自ら人を遠ざけるような表情には目に力がない。この独特の力なさに酷似した表情をわたしは知っている。
何かをしたいのに出来ない歯がゆさ、長くかかろうとも焦ってはいけないのだという真実、自分がそれを一番わかっているはずなのにわいてしまう焦燥感。それらを飲み込む毎日。
元々彼は華やかな人物で、会話のみならず部屋の中に配されたプロップからもそれは窺い知ることができる。何かのトロフィーに、君なら出来ると英語で書かれたアートパネル。現在位置との対比が、控えめな中にも鮮烈にうつる。
度々小さく頷く素振り。言語化できない形容し難い心情と向き合っていたり、恐怖と対峙する場面で、山添君は小さく、そして力まずに頷いている。ノンバーバルながら心の繊細な動きが言葉以上にしっかりと伝わってくるようだった。
後半に向けて、目には光が戻りぐんぐん表情が変わる。居場所を定めユニフォームをまとい、皆に買い出しの品を尋ねるまでになっていく。
パニック障害が劇中で治るわけではない。病気には波もある。だが彼が変わりゆくさまは、希死念慮に苦しめられてきたパートナーを持つわたしにもやわらかい希望に見えた。印象的な自転車のシーン、あの溶けてしまいそうな光のように。
たった数秒のペン
初見で息を呑んだのは、原作とは物語上かなり違う母・藤沢倫子役のりょうさんが登場する序盤のシーン。
何気ない描写なのだ。藤沢さんを迎えに行き私物を引き取る場面、母の倫子さんがサインをする。ペンを受け取る時、すぐにポロリと取り落としてしまうのだ。照れ笑い。この照れ笑いで、元々そそっかしいわけではないのにもかかわらず、こういうことが数度あったのかもしれないと感じる。
このペンの取りこぼしが「わざわざ」シーンに描かれたことの意味が、5年後の世界で明かされる。彼女はリハビリテーション施設にいるのだ。
原作にもあった血栓症の既往が織り込まれているので脳梗塞かと考えていたが、それにしては時間経過で病状が幾許か進んだように見受けられた。レイトショーだった初見ではショップが閉まってしまったため、日を跨いでパンフレットを購入したところ、パーキンソン病であることが書かれている。
それを知った上で再び鑑賞すると、母と娘の心の動きや映画オリジナルの展開、特に終盤に至る動きがいかに繊細にかたちづくられているのかを、クリアに受け取ることができる。
積み重ねられたストーリーと演技の説得力で、原作にはないアナザーの深みが増している。単純化はできないが、お節介で人のいい藤沢さんが仲のよい母を離れた場所に置いておくことは、些か考えにくいだろう。
社長と元上司
丁寧といえば、栗田社長のバックグラウンドと山添君の元上司・辻本さんの繋がりもそうだ。
ここに繋がりが生まれることで、見守りの連鎖が生まれている。見守る人、見守りを手渡す人。ふたりとも愛する人の死を止められなかった悔恨と悲しみを抱える自死遺族であり、そのふたりが「頑張れる人だった」山添君をやわらかく支えている。
元の会社に戻ろうともがいていた山添君が栗田科学に居場所を見いだし、プラネタリウムについて目を輝かせて語る様に辻本さんが涙する場面は、姉の死で後悔を抱えて生きてきた辻本さんにとっても微かな(しかし大きな)救済でもあったろう。その瞬間に、「栗田科学に大事で、そして心配している後輩を託して良かった」とはじめて心の底から安堵できたのではないか。溢れ出た涙に溶け込んでいるのは、柔和な笑みの裏側にずっと隠されていた感情。胸に迫るシーンだ。
ここで「どうぞ」とハンカチを渡す言葉の距離感から、連れている子どもが実子ではなく姉の遺児であることがそれとなくわかる。全編を通じ、明確な説明はどこにもない。ふんわりと関わりが示唆され、いたわりが循環する。人目のつかないテラスのままでいい、と山添君が案内された店内への移動をやんわり断るのもそれだ。
山添君を預かるかたちになった栗田社長のほうも、若いふたりがそれぞれに頑張りすぎない自然な在り方で交流を重ね、その中で弟の遺した肉声やメモを活かしてくれたことに感じるところがあっただろうと思う。
後半、身に纏う若干の諦念のような彼の風情に明るさが増したと感じた。口癖のように語られる言葉も壁に貼られた会社理念のポスターも、もう同じ悲しみを繰り返さないための自戒でもあったはずだから。
言葉とベクトル、共助
自分語りになるが、常々病人や要介護の人間とともにあるわたしにとって、いちばん取り扱いが難しいのは言葉だ。
ポジティブワードで元気付けられる人があるかと思えば、toxic positivityに苦しめられる人もいる。前向きな言葉や「わかってるよ」といった姿勢が刃になることがあり、反面、そうした言葉を勝手に奪うことも傲慢だ。言葉が多面性(多義性)を内包するものである以上、勝手にその意味を決めつけて嗤ったり否定したりすることは、意思や感情を支配して乗っ取るようなものでもある。
言葉はすべて関係性で成り立つものであって、似通ったベクトルを共有していれば問題にならないことが、当事者性のない人間からでは問題になることもある。それは人間という存在そのものの多面性、窺い知れなさと相似なのだ。
だからこそ存在の肯定を超えて強い意味を持つ言葉は、コンテクストが共有されない限り自分に向けて使うくらいでしかない。まして一般化など軽々にするものではない。
映画の序盤、処方薬が同じことから共感を示し「お互いに無理せずに頑張ろう」と言ったPMSの藤沢さんに、パニック障害の山添君は不快感を示す。病気に上下があるんだ、と俯き「PMSはまだまだだね」と口にした藤沢さんのつらさは、男性の山添君にはわからない。
だがそこでわからないままにせず、メンタルクリニックで医師に専門書を借り、はじめてPMSのつらさを山添君は知る。藤沢さんはパニック障害の患者が書いたブログを読む。ここで彼らは似通ったベクトル、つまりつらさの緩やかな共有という鍵を手に入れる。
他人同士である以上、相手のつらさを完全に知ることはできない。同じ病気であっても病状や経過はひとりひとり異なる上に、バックグラウンドも抱えるものも様々だ。だが、違いをわかったうえで他者と自分のそれを上下比較することなく、ただつらさとして素直に受け取るのであれば、ともに助けあうことはできる。
その視点に立つとき「お互いに無理せずに頑張ろう」の意味が俄かに変容する。藤沢さんと母は異なる病を抱えながら互いを思っているからだ。つまり母娘であることを差し引いても既に似通ったベクトルを持ち合わせている。
藤沢さんと山添君にはなかった鍵が、たちあらわれる。これまでの関わり方や言葉への反応に対する自己懐疑が生まれ、互いに無理や押し付けのない共助への扉が開いていく。
共助のやわらかいかたちが、この作品には通底している。遺族会のグリーフケア。トラブルにはすぐに複数人が手を貸して休んだり早退することが可能で、集まりには子どもを連れて行ってもいい職場環境。だんだん軽口すらも交わせるようになる、恋人でも親友でもない主人公のふたり。序盤のようなすれ違いは、もうそこにはない。
無理をさせず無理をせずお互いに慮る関係性の、弱さを知るからこその心強さ。それこそがこの作品の大切な軸であり、大きな魅力となっているように思う。
おそらく繰り返し観るたびに深みが増し、そのたびに視界が滲むだろう。映像ソフト化するなら欲しい。だがそれ以上にどこかのスクリーンで長く上映されつづける作品であってほしいと思う。夜の中に生きる人や、夜明けを待つ人たちのために。
前回感想記事(ネタバレなし)
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」