思考の枠を飛び越える

 今の世の中では、体系的な思考が求められているように感じる。

 ここで言う体系的な思考とは、定められた枠組みやストーリーの中で展開される思考のことだ。利用する枠組みやストーリーは既存のものでも、そのときに自ら作り出したものでも構わない。

 例えばQという問題(あるいはテーマ)について考える場合において、まずQについていろいろ理解・分析し、結果的にA,B,Cの三つの論点について考えなければいけないとわかったとすると、その後の思考は「A,B,C」という枠組みの中で展開されることになるが、これはまさに体系的な思考だと言える。

 さて、このような思考は確かに役に立つ。無駄の少ない効率的な思考が可能になるし、結果的に解答を得られる可能性も高まる。

 僕自身、体系的な思考の威力を実感することは多かった。そして何よりこの思考が完璧に決まった際の美しさに魅了されてきた。このような思考を得意とする、とまでは言えないけれど、少なくとも体系的な思考の習得を目指して努力してきたつもりである。


 だが一方で、この思考の限界も感じずにはいられない。

 この思考、体系的な思考はまったく未知の問題には無力である。未知の問題を解くには、ときに枠組みの外側に出ていかなければならない。よく知っている「ここ」からまだ見ぬ「向こう」へ、僕たちは一歩踏み出す必要があるのだ。残念ながら、体系的な思考だけで枠を突破していくのは極めて難しいように思う。

 しかしそれは当たり前のことで、些細な問題に過ぎない。より深刻な問題は別にある。

 その問題とは、体系的な思考が僕たちから未知の問題に対抗する能力を奪っていく可能性があるということだ。

 未知の問題を解くには、枠の外側に出ていかなければならない。そしてそれを可能にするのは、自由な思考である。自由で奔放な思考は、軽やかに力強く、僕たちを「ここ」へ閉じ込めようとする壁を飛び越えていく。根拠も必然性も何もないこの自由さだけが、僕たちを新たな世界に導いてくれるのだ。

 だが、あまりに体系的思考に馴染みすぎてしまうと、この自由さ、思考の生命力が失われていってしまうように、僕には思われる。そしてこれこそが僕の感じる「体系的な思考の限界」の正体だ。


 もちろん体系的な思考はとても強力で、個人的には今後も磨いていきたい技術の一つであることは間違いない。しかしそれは絶えず僕を幻惑し、僕から自由な思考を、自由に思考する感覚を奪おうとしてくる。それは何としても避けなければならない。

 結局のところ、必要なのは適切な距離感なのだろうと思う。

 僕は自らの問いに答えるために、体系的な思考を利用する。しかし、それに飲み込まれてはだめだ。僕は自分の自由な思考を、生き生きとした思考を、その感覚を、体系的な思考との距離を適切に保つことで守っていきたいと思う。



【補足】

 体系的な思考が未知の問題に対して無力であるというのは、それ「だけ」で解くことは難しいということであり、未知の問題に体系的な思考を使っても意味がない・使うべきではない、という意味ではない。むしろ適切に利用できれば、体系的な思考は未知の問題に対しても有効だと思われる。




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