未来のためにできること

私には、現代がとてもせかせかした早送りの世界に見える。予定や時間、情報に追われ、皆慌ただしく走り回っている。決められたスケジュールに沿ってひたすら安定を求め、安心をお金で購入し、定期的に自分の寿命を数えたりして人は生きている。
なぜ私はこの暦に合わせて生きているのだろう。現在ほぼ全世界で使われているのは、グレゴリオ暦という太陽の動きを元にして作られた太陽暦。太陽と月、地球の座標位置が変わることで暦、時間が発生し、そのリズムに合わせて私たちの体にも時計遺伝子が組み込まれた。数字を積み重ねていくと、どうしても前に進んでいる感覚になるけど、時間は進むというより、年輪のようにじわじわ広がっている感覚が私にはある。いつのまにか部屋が汚くなってたみたいな感じで、いつのまにか年をとっている。昔から気象予報士が言う「向こう一週間」という言葉に引っかかりを覚えていた。私の中では時間はあまり直線的ではないから、向こうと指定されるのが不思議だったのかもしれない。

ああすればよかった。こうしていればできたのに。と過去の自分の言動を悔やみ、たられば話を人はよくするけれど、仮に自分が過去に戻って後悔しないよう違う選択をしたからといって、自分の思い通りの結果になるとは私は思わない。自分1人を変えたところで、都合よく結果が変わるなんて甘いと思う。違う選択を選んだ時点で、自分に関わるたくさんのそれぞれのことにまた新たな可能性が生まれ、それが連鎖していく。
それはたぶん未来も一緒。未来のために、将来のためにと先読みし行動しても、必ず思い通りの未来が訪れるとは限らない。
ウイルスを見てわかるように、この世は突然変異だらけでできているし、常にあらゆることが流動的で循環している。私たちの体も、目まぐるしく変わり続けるこの社会も。

世界を変えようなんて思わなくていい。世界は勝手に変わるから。と映画「ビリーブ」の台詞であった。私もそう思う。全てが常に動き、リズムを刻んでいるこの宇宙では、たぶん永遠に固定しておけるもの、変わらないものなんてひとつもない。あるとしたら、それは一人ひとりの意識の中だけに存在すると思う。

私の祖父は、数年前から私のことを忘れてしまった。昔一緒に過ごしたあの時間も、私という人間も、もう祖父の中には存在しないのだなと時々思う。私自身もとても忘れやすい脳を持っていて、何度も同じ話をしてしまう。だからか自分の記憶なんてものは一つも信頼できないし、過去はあってないようなものだなと感じる。人は記憶がないと過去を感じ取ることができない。加えてその記憶が正しいかどうかなんて誰にも判断できない。脆く儚く、なんて頼りないのだろう。
「今」を終えた大半の自分は、終わってしばらくしたら消えたことにしている。積み上げているものなんてほとんどない。年輪の小さな輪っかが内側からどんどん無くなって空洞になっていくように。空ではないはずだけど空。一度落ちたら二度と戻ってこれないブラックホールの情報のように。中身は漆黒の暗闇に吸い込まれていく。

ここに書きなぐっているこの文章も、おそらく瞬間的なただのでっちあげで、数秒前、数分前に書いた話に辻褄を合わせているだけな気がする。そうやって理由になりそうな言葉を並べるゲームをしていて、自分が自分に騙されている感じもする。人生もこれと似たようなものだと思う。咄嗟に感じたあんな感情やこんな感情が、なぜでたらめなものと捉えず、本質的だと思うのだろう。好きなものに理由を並べれば並べるほど嘘くさく感じる。そう思うのもなぜなんだろう。きりがない。

この文章を目にする人にとって(後で読み返す自分も含め)、私と祖父の存在は、架空の物語の登場人物となんら変わらない。私が目の前に物理的に存在してもしなくても、人は自動的に全てのことを意味ある物語に変換する。私が悲しむ姿を想像したりしなかったり、その想像は無限大。

そしてその想像力で、人は未来や過去を好きなように決められる。未来を設定すればするほど、寿命に焦り、たられば話を持ち出し、駆け足で走りだす。間に合いそうにないものは次の遺伝子に託して途絶えさせないようにする。縄文人は7世代先のことまで考えて生きていたらしい。なぜそこまでして安定を求め持続させようとするのか。歴史が途絶えたら何がそんなにまずいのだろうか。なぜ滅びることをこんなに嫌がるのだろう。なぜ繋げたがるのだろう。自分のことを忘れてほしくない、生きた証を残したい、と思うのはなぜなんだろう。全ては不快を避けたいからなのだろうか。本当に不思議。

未来のためにできること、それは未来など存在しないかのように、それぞれの今に視点を合わせて生きることだと思う。足元にある波に乗り、自分のリズムを刻み、自分の音楽を奏で楽しむこと。未来や過去を想像するよりももっともっと、それが人間には必要なことだと私は思う。


とか書きながら、最近カテーテル点滴でしか生きられなくなった祖父とのお別れが迫ってきていることを勝手に思い、涙がこぼれそうになっている。どんなに頑張っても想像をやめることはできない。形あるものすべて無くなるのなら、最初から形にされたくなかったと何度考えたことだろう。
祖父の中の私はとうの昔に消えていて、お別れは終了したも同然だったはずなのに、想像することが引き金になって、私のからだの何かが反応する。そしてその一瞬の感覚に全ての思考が負けてしまう。

矛盾したわけのわからない何かを抱えながら、祖父の写真を眺める。
永遠はきっと、それぞれの瞬間の中に存在する。そしてその永遠は、終わりを意識したそのときにだけ感じることができるのだろう。

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