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「自分は何者なのか」問題について~肩書きとアイデンティティ~

「あの人は特別で、自分とは別物だ」
なんて、思われたくないし、思いたくない。


あるコミュニティでインドでの経験を話してきた。

子ども達も聴いてくれていたので話せたのはとても良かったし、伝えたかったこともあったし、これをきっかけにダンスやインドや海外に興味を持ってくれたり、何かやってみようと思ってくれた人がいたりしたらいいなと思う。

でも、その反面、思うのだ。

「インドにダンスをしに行った私は決して特別な存在なんかじゃない、あなたと何も変わらない。」と。


私だって、インドに行く前は

「ひとりでインドに行く人」

なんて特別な人だと思ってたし、

「インドでダンスを習う。ステージに立つ」

なんて、自分とは別世界の話だと思っていた。


でも実際やってみたら、それらは私の中で現実になった。


この経験を話すと、開口一番に「すごいですね!」と言われる。
そうだよな、すごいって思うよな。私だってすごいって思ってたんだから。


すごいと言われることはもちろん嬉しい。自分の中の承認欲求みたいなものが満たされるのも事実。「私はこれをやってきました!」「こんなことをやっています!」というものがあることも有り難い。


でも、あえてこんな言い方をしてみたい。

これらは「すごいっぽいこと」だ。


誤解して欲しくないのは、私はインドへ行った経験や自分がやっていることを卑下しているわけでは決してない。むしろ誇りに思っている。これからも続けたいし、人にも話したい。

でも、重要なのは、「インドに行ったこと」とか「ダンスをやっていること」とか、そういう外見(そとみ)ではなくて、思いの方。中身の方を誇りに思いたいということ。つまりは「ボリウッド、超楽しい~~~!」っていう気持ちとか、「怖いけど、行っちゃえ!」っていう勇気とか。


「すごいっぽいこと」はキャッチーだ。一般的なものとは違うので、人の目を引きやすい。
その分、それを目の当たりにした人が「自分とは違う。自分にはそんなこと出来ない」って自分の価値をその人より下に見積もってしまうことが起こるんじゃないかと思って、それは嫌だなと思って、こんな文章を書いている。なぜなら、私がそうなりがちだから。

「すごいっぽいもの」に騙されないで、その「すごいっぽいもの」を起こす元となっている思いや人間性に注目したいんだ。私は。


「肩書き」は箱。

「アイデンティティ」は中身。

箱は何だっていいし人によって違うのは当たり前。
海外に行ったっていいし別に行かなくたっていい。
何かずっと続けていることがあるのもいいけど、最近急に好きになったことだって同じくらい素晴らしい。
子どもを育てることとか、会社での仕事とか、多くの人がやっていることだって、そこにある思いと「インドに行くこと」に込められた思いと、何が違うっていうんだろう。


理想的なのは、箱と中身が両方あって、且つ直結している人。そんな人の「私は○○です!」という自己紹介は清々しくて、生まれる最初の感想は「すごい!」よりも「素敵!」「いいね!」なんじゃないかな。

言葉を明確に分ける必要はないかもしれない。
でも気持ちの上では「すごい」よりも「素敵だね」と言われる人になりたいなと思うし、そういう人が好きだ。あるいは、思いの方を「すごい」って言ってもらえるなら、それはとても嬉しいかな。


深夜のこんなツイートから生まれた記事でした。

おしまい。

メリークリスマス!

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