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美貌のプリンセス「ガッラ・プラキディア」の人生

西ローマ帝国崩壊時に、首都がおかれていた北部イタリア、ラベンナに、その当時(5世紀前半)につくられたシンプルなレンガ造りの小さい建物があります。「ガッラ・プラキディア廟堂」です。

内部はそのシンプルな外観とは裏腹に、壁と天井がモザイク画で埋め尽くされています。

生きながら鉄格子の上で火あぶりにされ殉教した聖人ラウレンティウス
まだ苦悩を表わす前の若いキリスト
星が輝く空のような天井
(観光客がおしよせる今となっては扉を閉め、真っ暗にすることはできませんが
もし閉めることができるならば
アラバスターの窓を通して入ってくるかすかな光に輝き
まるで本物の夜空を見上げているかのようでしょう)
このように壁や天井にモザイクが使われ始めたのはこの時代から。
それまでのモザイクは、床が主でした。
多神教からキリスト教への過渡期、
多神教の建造物よりもキリスト教建造物が勝る必要性があったためです。

死後の世界に選ぶには夢のようなこの廟堂。
誰のもので、その人はどのような人生を送ったのでしょうか?

プリンセス「ガッラ・プラキディア」誕生

この廟堂にまつられているガッラ・プラキディアという女性、生年は確かではありませんが、392年と言われています。ローマ皇帝の父テオドシウス1世と母ガッラのもと、コンスタンティノープル(現トルコ・イスタンブール)に生まれました。

父テオドシウス1世には、すでに前妻との間に二人の息子、アルカディウスとホノリウスがいましたが、生まれてすぐガッラ・プラキディアにも皇女(Nobilissima/ノビリッシマ)の称号が与えられました。

しかし、20歳にもなっていなかった若い母ガッラは、二人目出産の際、赤ちゃんとともに死去。

その後、次兄ホノリウスとともに、ローマ皇帝の父テオドシウス1世の遠征に、イタリア、ミラノへ連れていかれますが、父も勝利の数か月後の395年、2歳か3歳であったガッラ・プラキディアを残し病死してしまいます。

死の直前、皇帝は、長男アルカデイゥスに東ローマ帝国を、次男ホノリウスに西ローマ帝国を分担したため、東西ローマ分裂が決定的になりました。

幼くして両親を亡くしたガッラ・プラキディアは、たった11歳で西ローマ皇帝になった次兄ホノリウスとともに、二人には従姉にあたるセレーナに育てられます。

そして実際の政務はセレーナの夫であるヴァンダル族出身のスティリコが行いました。スティリコは「最後のローマ人」と呼ばれたほど、蛮族出身でありながら、ローマへの蛮族侵入をくいとめるため奔走した人です。

ちなみに、この後、東ローマ帝国は1453年の滅亡まで1000年以上続くのに対し、西ローマ帝国は476年の崩壊まで秒読みの段階。蛮族が襲って来て、殺し、奪い、ローマ帝国へ居つき始めたからです。

404年には、西ローマ帝国の首都が、蛮族の侵入の危険にさらされているミラノから、海と潟に守られたラベンナへ移されます。

娘を皇帝に嫁がせ帝位をねらい、私服を肥やしていた従姉セレーナ。その陰で育った少女時代のガッラ・プラキディアの様子は、あまり知られていませんが、いつ謀反が起こるかわからない時代。従姉セレーナを見ながら観察力は養ったようです。

16歳にして大きな決断

407年、蛮族に対して勝利を続けていたスティリコが、蛮族出身ゆえの恨み妬みをかい死刑をくだされます。

ローマを守ってくれていた将軍スティリコを、自分達の手で殺してしまうとは、歴史の真只中にいると、こうも時代を読むことが難しいことなのか。。。

スティリコ亡き後、アラリックを王とする西ゴート族のローマ帝国侵入をくいとめることができるローマ将軍はおらず、アラリックはローマの町を包囲。600年間、敵にさらされることなく、平和を享受してきた前首都ローマまで蛮族が押し寄せてきました。

408年秋、この包囲に怒ったローマは、今度は将軍スティリコの未亡人セレーナに罪を押し付け、セレーナは、ローマ元老院と当時ローマに滞在していた皇帝の妹ガッラ・プラキディアの名で死刑判決を受けます。

16歳のガッラ・プラキディアは、その決断力の強さから、育ててくれたセレーナを守ろうとはしませんでした。

人質時代

410年夏、軍司令官のタイトルと領土を、ローマ皇帝から欲する西ゴート族王アラリックは、ローマを再び包囲、略奪。それでも、ラヴェンナにいるローマ皇帝は要求を承諾しなかったため、西ゴート族は食の確保を求め、南イタリアへ略奪しながら移動します。その中に人質として連れて行かれるガッラ・プラキディアの姿がありました。

イタリア半島つま先の先端レッジョまで来た西ゴート族は、シチリア島に渡りたかったようですが、船には不慣れであり、ローマ海軍にも阻止されたため断念。再び北上を始めます。

大切な人質であったガッラ・プラキディアは、手荒には扱われなかったようですが、雪のちらつく中、ローマ海軍のいる海岸をさけ、サスペンションのない馬車でのガタガタの山道の移動は、決して楽なものではなかったのに違いありません。

そんな中、王アラリックが病死。西ゴート族は、新しい王にアラリックの義弟アタウルフを選出、略奪しながらイタリアを縦断し、定住の地を求めガリア(現フランス)に到着します。

そして413年、なんと新王アタウルフとガッラ・プラキディアが結婚!人質であったガッラ・プラキディアは女王となります。

何年間かテントをともにした美貌のプリンセスに、恋に落ちた蛮族の王アタウルフ。ガッラ・プラキディアの方も、苦労をともにした西ゴート族への同情や、ローマと西ゴート族間の橋渡しをしたいと思っただけではなく、すらりと背の高い金髪で青い瞳の王アタウルフに純粋に恋に落ちたようです。

しかし二人の結婚に、西ローマ皇帝の兄ホノリウスが激怒し、将軍コンスタンティウスを送ってきたため、西ゴート族は、さらに西のバルセロナへ移動します。

幸福の絶頂から奈落の底へ

バルセロナでガッラ・プラキディアは、男の子テオドシウスを出産。自分の父と同じ名前を与えたのは西ローマ皇帝の兄に子はおらず、後継者を意識したからでした。しかし、赤ん坊は数週間で亡くなってしまいます。

そして415年には、愛する夫アタウルフが、親ローマ政策の批判をかい、殺害されます。ガッラ・プラキディアは王女から再び人質へ。今回は新しい王が行く馬の前を、徒歩で何十キロも歩かなければいけませんでした。が、この王はたった7日後に暗殺されます。そして、アタウルフの最後の言葉通り、ガッラ・プラキディアは、西ローマ帝国の首都ラベンナへ返されました。

2度目の結婚

ラベンナに戻ると皇帝である兄の意向で、最愛の夫アタウルフの敵であったばかりでなく、ブサイクで目ばかり大きく、ずんぐりとした動作の将軍コンスタンティウスと結婚しなければなりませんでした。しかし、結婚を期に、従順で臆病な男たちに対し、意思の強いガッラ・プラキディアは、政治に口出しをするようになります。

418年 長女ホノリア誕生。
419年 長男ヴァレンティニアヌス誕生。

けれども、421年夫コンスタンティウスは、共同皇帝になった7カ月後に病死。再び未亡人になります。

そんな中、新たな蛮族侵入にローマが敗れ、その責任を押し付ける先により国の意見が皇帝ホノリウス派とガッラ・プラキディア派に分かれ、ガッラ・プラキディアは、イタリアから追放され、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルへ逃避します。その際、船が嵐に遭遇。二人の子どもと生き延びることができたら、教会を建てると使徒ヨハネに祈り、難を逃れたガッラ・プラキディア。実際、権力を取り戻し、ラベンナに戻った折、彼の名の教会を建てています。

全権力を手中に

権力から遠のいたように思えたガッラ・プラキディアですが、423年、後継人となる息子のいない兄ホノリウスが39歳で病死。

ローマ元老院は、とあるヨハンネスという高官を新皇帝に選びますが、ガッラ・プラキディアは、甥の東ローマ帝国皇帝に自分の息子ヴァレンティニアヌスを西ローマ皇帝と宣言させ、イタリアへ東ローマ帝国軍と戻り、425年ヨハンネスを横領者として極刑に科します。ローマ元老院に正式に選ばれた人物をです。ここにガッラ・プラキディアの強い性格を見ることができます。

これで、6歳で西ローマ皇帝になった息子の後見人として、33歳のガッラ・プラキディアは、全ての権力を得たことになります。

しかし、崩れ行く帝国のかじ取りは決して簡単ではありませんでした。それでも、信頼おけるものを活用し、役人、官僚、金持ち貴族、軍司令官の嫉妬や謀略をかいくぐり、425年から、息子が成人する437年まで、大きな責任の下、バランスをとりながら全権力を保ち続けました。そして、一線を退いたものの亡くなる450年まで、女皇帝(Augusta/アウグスタ)として君臨しました。

家庭問題と最期

成人した息子は東ローマ皇帝の娘と結婚。二人の孫も生まれ、安定した最期を送れるのかと思いましたが。。。

439年西ローマ帝国は、ヴァンダル族に侵入され、6世紀間続いたアフリカの領地を失います。今と違いアフリカは、人口も多く町が豊かで、大地も耕されており、海を挟んでいるだけで、イタリアが続いているかのようでした。

そして、彼女にとってもっとショックであったであろうことは、長女ホノリアがとった行動。ホノリアは、蛮族の中でも最も恐れられている蛮族、フン族の王アッティラに、本物という証拠である自分の指輪とともに、求めていない結婚を強いられているから助けてほしいと手紙を送ったのです。アッティラは、ホノリアのフィアンセであると主張しはじめ、西ローマ帝国はさらなる脅威にさらされることになります。母ガッラ・プラキディアの懇願によりホノリアは命は助けられましたが、隔離され牢に入れられました。母似の勇敢で負けず嫌いの性格であったホノリアは、皇帝の弟と母の陰にかくれ、敬虔な母に修道女のような生活を強いられたことに、納得がいかなかったのでしょう。

政治的にも宗教的にも東西ローマ統一を、求めたガッラ・プラキディア。最期の数カ月は東ローマ帝国との間に起こった宗教論争のためローマに滞在しました。いつ、アッティラが襲ってくるかわからないという不安もありました。病気にかかり落胆したガッラ・プラキディアには、若い時のように行動を起こす元気はもうありませんでした。そして450年11月27日、建てた廟堂のあるラヴェンナに戻ることなくローマで亡くなり埋葬されました。

遺体がその後ラヴェンナに運ばれ、不注意な観覧者のロウソクの火により灰燼に帰したともいわれていますが、それは、どうやら単なる伝説のようです。

参考文献
Vito Antonio Sirago, Galla Placidia la Nobilissima, Milano, 2003
Stefania Salti & Renata Venturini, La vita di Galla Placidia, Ravenna, 2012
https://it.wikipedia.org/wiki/Galla_Placidia

ガッラ・プラキディア廟堂(2022年6月現在)
他4施設
サン・ヴィターレ聖堂
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂
ネオニアーノ洗礼堂
アルチヴェスコヴィーレ美術館
との共通券で
一般:10.50ユーロ(7日間有効。1施設1回のみ入場可能。)
及び、ガッラ・プラキディア廟堂入場に別途2ユーロ。

詳しくは、https://www.ravennamosaici.it/ でご確認ください。

日本語の本

日本語でガッラ・プラキディアを読むなら、藤沢道郎氏の「物語 イタリアの歴史」。私がイタリア語の資料を読みながら思い描いたガッラ・プラキディアより、藤沢道郎氏はやや優しい感じで彼女を描かれています。

軍才のある男に惚れこむタイプの塩野七生氏は、ガッラ・プラキディアには厳しい評価で、あまり触れてもいませんが、「ローマ人の物語」ではXV巻「ローマ世界の終焉」に、彼女が生きた時代のことが書かれています。


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