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どこよりも大きな神殿を。古代ローマの至高神ユピテル神殿

ローマの七丘の中で一番高いカピトリヌスの丘。現在、丘の上には、ミケランジェロが設計したカンピドリオ広場を囲み、ローマ市役所やカピトリーノ美術館があります。

紀元前8世紀ローマ建国前のカピトリヌスの丘。すでに小屋が建てられていた。

古代ローマ建国当初は、ほぼ四方が断崖であるため、カピトリヌスの丘は難攻不落の要塞として使われました。そして、紀元前616年、エトルリア出身のタルクィニウス・プリスクスが王になりそこに大きな神殿を建てたため、カピトリヌスの丘は宗教の中心地となりました。

ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿が建てられた
カピトリヌスの丘。


古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウス(紀元前59年頃~17年)は、タルクィニウス・プリスクスがサビニ人との闘いの前に、もし勝利すれば神殿を建立すると誓いを立て、現に勝利したため、神殿の建設がはじまったと語っています。至高神のユピテル、その妻ユーノー、娘ミネルヴァからなるローマの三大神が祀られており、ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿(以下ユピテル神殿)と呼ばれていました。

神殿の建設はタルクィニウス・プリスクスの治世下で始まりましたが、完成したのは2代後の息子タルクィニウス・スペルブスの時代。そして、奉献されたのは、共和政ローマの一年目、紀元前509年と信じられています。建設には、エトルリアより職人が呼び寄せられ、隣国からの貢ぎ物や戦利品などの大量の資金がつぎ込まれました。そして、出来上がった神殿は、基壇(ポディウム)の大きさが62m×53mで、当時の中部イタリアでは類をみない大きさでした。その頃ローマは生まれて150年ほどの小さな都市国家でしたが、すでに栄えていたエトルリア文明の中にもこのような大きな神殿は作られていませんでした。

神殿の中にはエトルリアの芸術家ウェイイのヴゥルカによってつくられたユピテル神の大きな彫像が飾られ、屋根の上にもヴゥルカによるテラコッタ製の並列四頭立て二輪馬車が取り付けられたとされます。

この彫刻には製作にまつわるエピソードが残っています。ウェイイの職人が形ができあがった彫像を窯に入れると、彫像は縮まるどころか大きくなり、取り出すためには窯を壊さなければなりませんでした。この出来事は、彫像を製作した民族(エトルリア)よりも、彫像が捧げられる民族(ローマ)の権力の表れであると解釈されました。

この彫像は残っておらず、紀元前296年にはブロンズ製へ取り換えられますが、同時期にエトルリアで神殿装飾用につくられたテラコッタ製の2頭のペガサスからどのような作品だったか想像ができます。

また、当時、宗教は、政治的にも軍事的にも大きな関わりを持っていました。ユピテル神殿は特に重要で、この神殿前で毎年共和政ローマの最高権力者である執政官の任命式が行われ、選ばれた執政官は神殿に入り神の彫像の前で誓いの言葉を述べ、そして、兵士も、戦場に出発する前に三神に守ってもらえるようカピトリヌスの丘に集まり聖なる誓いをたて、勝利のお祝いも神殿前で行っていました。

また、ユピテル神殿には、国家の財宝や「シビュラの書」が玉座の下に隠され保管されました。「シビュラの書」とは、シビュラ(巫女)が受け取ったとされる神託がまとめられた古代ギリシアの詩集です。ローマの王タルクィニウスがクマエのシュビラから購入したとされています。シュビラの書は、疫病・戦争といった困難や、落雷などの凶兆に際して参照されました。

ユピテル神殿は、紀元前83年の大火災で焼き尽くされましたが、当時の独裁者スッラによって直ちに再建されています。その際、アテネのゼウス・オリンピウス神殿から持って来られたコリント式の円柱がいくつか追加されました。その後69年に再び焼失しますが78年に再建され、455年ヴァンダル人による略奪のころまでは残っていたようですが、その後の記録はありませんでした。

それ以来、19世紀末まで神殿の正確な位置はわかっていませんでしたが、1860年カッファレッリ宮殿の修復作業中に巨大な神殿の基礎部分が発見され、現在カピトリーノ美術館の一部として見学することができます。

古代ローマの歴史を単独で知るとその偉大さに驚嘆します。しかし、すでに中部イタリアに存在したエトルリア文明と比較すると、ローマがいかに大きさに執着していたことがわかります。神殿の大きさしかり、彫像が窯に入れたら大きくなったというエピソードしかり。それは、まるで知性では敵わないエトルリアに大きさで対抗していたかのようにも思われます。

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