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ローマ、コロンナ広場のヴェーデキント宮殿。イオニア式列柱の意外な起源。

ローマの中心地にあるコロンナ広場。コロンナとはイタリア語で円柱という意味で、広場の中心には大きなマルクス・アウレリウスの記念柱が立っており、広場の北側はイタリアの閣僚評議会議長官邸として使われているキージ宮殿。その西側には、代議院(下院)議事堂として使用されているモンテチトーリオ宮殿があり、イタリア政治の中枢です。

マルクス・アウレリウスの記念柱。右が、キージ宮殿。
記念柱の奥に見えるのがモンテチトーリオ宮殿。左がヴェーデキント宮殿。

でも、今回注目するのは、広場の西側に面するヴェーデキント宮殿。現在はイタリアの新聞社"IL TEMPO"の本拠地。1838年にローマ教皇グリゴリウス16世により、正面に柱廊が設けられ、大きく改築されました。

ヴェーデキント宮殿

この美しい16本のイオニア式列柱のうち11本は、ウェイイという町でみつかったものです。

さて、ウェイイ(イタリア語ではVeioヴェイオ)という聞きなれない町はどこにあるのでしょうか。

ウェイイのことを、古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウス(紀元前59年頃 - 17年)は「輝かしい都市」と記述し、ハリカルナッソスのディオニュシオス(紀元前60年 - 同7年)は「アテネと同じぐらい大きくエトルリアの中で一番権力のある都市」と記しています。

そうです。ウェイイは、エトルリアの12都市連盟の一つでした。

紀元前10世紀にできたウェイイは、エトルリアの都市の中でもカエレと並び人口が一番多く、特に紀元前7世紀から6世紀にかけて中部イタリアの政治と文化の中心地でした。

ギリシャの影響を受けてはいますが、エトルリア独特の芸術も花開き、職人の工房がたくさんあり、テラコッタ彫刻の著名な学校もありました。ローマが至高神ユピテルに捧げる神殿をカピトリヌスの丘に造った時もウェイイの彫刻家ヴゥルカ(紀元前6世紀)を呼び寄せています。

墳墓の石室の壁を絵画で装飾し始めたのもウェイイでした。イタリア半島で一番古い壁画が描かれたお墓がこのウェイイでみつかっています。

しかしながら、そんなに栄えていたウェイイの悲劇は、テヴェレ川をはさんで、ローマの中心地から北西にわずか15㎞のところに位置していたことでした。

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紀元前8世紀にすでに、ローマと、ティベリーナ島より西側の領地やテヴェレ川河口の塩田の所有をめぐって対立関係になります。

ただ、建国されたばかりのローマは拡大を続けながらも、2世紀の間はウェイイの繁栄の陰に隠れていました。しかし避けることのできない衝突が起こったのが紀元前485年。ローマはウェイイを略奪します。

ローマとの攻防が続いたウェイイは、エトルリアの12都市連盟の他の都市に助けを求めます。ところが、12都市連盟はボルセーナ湖のウォルトゥムナ神殿にて会合を開き、援助拒否の決定を下しました。エトルリアの12都市連盟は、宗教、言語、伝統を共有することで結ばれたのであって、政治や軍事連盟ではなかったからです。そして、紀元前396年ウェイイが最終的に陥落し、ローマによって滅ぼされた一つ目のエトルリアの都市となりました。

その後、一度ウェイイは、廃墟と化しますが、紀元前1世紀ローマの植民地として再建築されます。ローマ時代のウェイイは大きさでも重要さでもエトルリア時代のような繁栄を見ることはなく、4世紀に決定的に放棄された後、19世紀まで農業地として使われていました。

ウェイイで、1812年から1817年に発掘調査が行われました。その際、発見されたのが、現在ヴェーデキント宮殿に使われているイオニア式列柱。ローマ時代のフォーラムに使われていたと考えられています。

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