見出し画像

現在二つの顔を持つ「オッタヴィアのポルティコ」

ローマを歩くと古代ローマの遺跡に街中のあちらこちらで出くわします。

ベネツィア広場とテヴェレ川に挟まれた旧ユダヤ人街にあるオッタヴィアのポルティコもその一つ。

ポルティコとは、日本語にすると前廊、柱廊。ギリシャ神殿やそれをまねた建物の正面にある、柱の並んだ吹き放しの廊下のことです。

このオッタヴィアのポルティコは、紀元前33年に初代皇帝アウグストゥスにより、妹オッタヴィアに捧げられ、再建されたものです。というのも、ここにはもともと紀元前146年に建てられたメテッロのポルティコがあったからです。メテッロのポルティコは、さらに古い紀元前179年に建てられた「ユーノー・レーギーナ神殿(ローマ神話最大の女神)と、古代ローマ初の大理石のみでつくられた「ユピテル・スタトーレ神殿」(スタトーレとは、ローマ神話の主神ユピテルの添え名で軍に抵抗力を与えるとの意がある)の二つの神殿を回廊で囲んでいました。

現在、遺跡が残っているのは、このオッタヴィアのポルティコのプロピュライアと呼ばれる入り口部分、そしてそこから向かって右側マルケッルス劇場の方へ伸びる柱廊のみですが、古代ローマ時代には北西隣りにフィリッポのポルティコ(回廊)、そしてその先にはオクタヴィアヌスのポルティコ(回廊)がありました。

古代ローマ時代によくみられるこの回廊は、屋根がついていたため、神殿にお参りする際、雨や強い日差しから身を守れただけではなく、会談や売買の交渉をするための、政治、経済、宗教において重要な場所でした。

オッタヴィアのポルティコの回廊も幅119m、奥行き132mでなんと全部で300本ものコリント式柱が使われていました。80年の火災の後、修復され、203年にも皇帝セプティミウス・セウェルスにより修復されています。

現在は、ファサードの側壁の壁端柱の間に4本あったコリント式柱の左側の2本が残っていて、その上のアーキトレーブとティンパヌム(三角形の部分)を支えており、内部にも3本のコリント式柱が、再利用の資材でつくられた、今にもくずれ落ちそうなティンパヌムを支えています。側面の回廊につながる部分にあるレンガでつくられたアーチ型の門も古代ローマのものですが、もともとは大理石でおおわれていました。

中世の時代、オッタヴィアのポルティコは、大きな魚市場と教会に変身します。ファサード右側のレンガのアーチ型門は、その時代のもので、奥の「魚市場のサンタンジェロ教会」の門としてつくられました。

そのため、オッタヴィアのポルティコは、現在、古代ローマの顔と中世の顔の二つの顔を持っているのです。



素直にうれしいです。ありがとうございます。