「芸術家」に憧れる若者の話

「アートの表現手段として役立つツールだと感じたものには何でも関わるように心掛けていた。僕はひとりで革命を起こそうとしていたんだ(笑)」
――デヴィッド・ボウイ(60年代の自身について)

……Twitterでデヴィッド・ボウイの名言集を読み漁っていたら、こんな言葉を発見。ふと、この「アート」という言葉が気になり、ボウイのようにアートに憧れる若者について、考えてみることにしました。


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若き日のボウイ


「芸術家」たらんとする者は、「芸術」(アート)という大きな言葉そのものが好きです。芸術の各分野を渡り歩くのが好きです。芝居や音楽、美術や文学、映画など、様々な芸術を同時に愛し、共感覚に憧れる。彼らは、「職人」としての芸術家ではなく、「芸術を愛する者」としての芸術家なのです。
(※共感覚…あるひとつの感覚への刺激が、他の感覚をも喚起すること。)

これは、若者の芸術サークルによくみられる傾向だと思います。夢と希望と、現実と絶望とが綯い交ぜになった多感な青年期に、この衝動が起こることが多いのではないでしょうか。1960年代のボウイだけとも限りません。どの時代にも、同じような若者たちはたくさんいました。


少々マニアックな話になりますが、「レ・ミゼラブル」などで知られるフランスの大作家、ヴィクトル・ユゴーの後輩にあたる世代の若者たちの文芸サークルが、私はとても好きで、彼らが血気盛んに活動していた1830年代頃(日本で言うと江戸時代後期)にタイムスリップしたいと真剣に考えていたことがあります。

彼らも、詩を歌い絵を描き音楽を聴き、ユゴーと共に芸術運動を通して大人たちと闘い、とにもかくにも「芸術」そのものを信仰していました。(ちなみに、実はユゴーも絵上手いです。素人の域を超えてます。)


ほかには、日本でも人気の高い「ラファエル前派」の画家ロセッティも、その「芸術家」に憧れる若者の典型だなあと思います。
(※ラファエル前派…1800年代半ばに活躍したイギリスの画家グループで、ロセッティはその中心的存在。ただ、厳密には、ロセッティはラファエル前派“第二期”のリーダーと言った方が良いかもしれません。)

ロセッティは、詩人になるか画家になるか迷いながら学生時代を過ごし、画家になってからも自分の絵に対応する詩を創作するほか、ルネサンスなど昔の絵画作品にあてた詩も書いていました。

詩人・画家・音楽家など、そのうちどれかひとつの創作活動に従事するだけではなく、同時にそれらのどれにも通じていて、必要となればそのどれにでもなることができるほどの広い芸術的資質を有する者、という意味での「芸術家」。
ロセッティの創作における姿勢は、まさにこれだなあと思うのです。


ちなみに、デヴィッド・ボウイの3作目のアルバムThe Man Who Sold The World(世界を売った男)のアルバムジャケットは、ロセッティの絵画からインスピレーションを得ているそう。こんなところに繋がりがあるんですね。

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(図録の表紙は、ウォーターハウスという画家の絵ですが)


とはいえ、芸術を崇拝しすぎると、どんどん現実から遠ざかり、そのうちきっとどこかで行き詰まり、挙句には袋小路で眠たくなってしまいますから……この信仰が必ずしも人生の道標になるとは思いません。
ただ、いつの時代も、若者を惹きつける魅力的な言葉なのです。(かく言う私も、かつてこの言葉に魅了された人間のうちの一人なのでした……。)

さまざまな感覚が共鳴し合う、大きな「芸術(アート)」という言葉。

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