街角の天使

以前、讃美歌を歌いたいがために、キリスト教徒ではないのですがチャペルに通っていたことがあります。(とても簡易的な礼拝でしたので、牧師さんのお話を聞いて、歌って、お祈りして、それが1回20分くらい。)

約2年ほど通いましたが、私は、洗礼を受けよう(キリスト教徒になろう)とは思いませんでした。そもそも、「神を信じる」ってどういうことだろう?それが、ずっと感覚的にわからなかったのです。

なぜ、神の存在を「信じることができる」のだろう?
その礼拝で知り合った信者の方の中には、同い年の子もいましたが、何を根拠に神を信じているのとは、なかなか聞けませんでした。


とある日の礼拝で、大人になって洗礼を受けた方が、その決心をした理由について話すのを聞く機会がありました。
その方も、数年前までは特に信仰を持っておらず、信者の方に対して「なぜ神を信じることができるのだろう」と思っていたそうです。でも、ある時から、「信じることに決めた」のだと。そうすると、人生における様々なことの説明がつく、そして何より自分自身が納得する、と。

それを聞いて、私は妙に納得してしまいました。

ああ、そういうことか……
信じることができるか、できないか
の前に、
信じるか、信じないか
があるんだなぁ。


つまり、「信じることにする」という、その人自身の意思決定があるのです。(もちろんこれは一例に過ぎず、信仰については色んな考え方があると思います。)

理論で説明できなくとも、神という存在がひとつあれば、それだけで一部始終の説明がつくこともあるのです、きっと。人生における様々なことを受け入れるために、人間には神が必要なのかもしれない、とその時改めて思いました。


というわけで私は、今日の帰り道、横断歩道で、私に走り寄って「お疲れさま!」と声をかけてきた見知らぬ女の子(本当に見覚えがないのです)を、天使だと信じることにします。

ああ、納得。
あれは天使だったのね……



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信じるか、信じないか。
それは自分の意思。





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