賞に落ちた作品は下手なのか?
自分が感じてたモヤモヤの正体がわかったかもしれん。
以前に僕が頂いたコメントの言葉をざっくり借りれば、「自分はこんなに良い作品(文章)を書いているのに、なぜ評価されないのか?と思う」ことについてだ。誰もが、多かれ少なかれ心当たりのあるであろう、この問題。
この問題について、自分なりにだけど、理解にたどり着いたような気がするので、書いてみる。
この問題には、上手い下手という点が密接に絡んでる。
大抵、人は、創作や表現の活動において、「上手くなりたい」と思うだろうし、「上手ければ認められる」だとか「認められたのは上手いからだ」とか思うと思う。そんなことない?でも、僕は、ここに大きな落とし穴があると直感し始めた。
なにを以って上手い下手と言うか、という話ではあるんだけど。
例えば、文学賞に落ちたからといって、下手であるとは限らない……と、僕は単に言いたいのではなく、そのさらに先の理解にたどり着いたように思う。
極端な話である、「上手い下手は存在しない。あるのは違いだけだ」という、まさに相対主義といった感じの考え方は、これはひとつの重要な考え方だと思うけど、どこか現実にそぐわない理想論のような気もする。だって、そうなのであれば、熟練も未熟も存在せず、素人でも子供でも、いくらでも同じようにプロなどと対等に肩を並べられる、ということになってしまう。
先の言説(「上手い下手はない。あるのは違いだけ」という)は、だからまさに、そういうことを言いたいのかもしれない。ゴッホやルノワールなどの巨匠といわれる画家の絵に比べて、うちの3歳の息子が描いた絵は、勝るとも劣らないという、そういう考え方、ないしは主張。これはこれで、ひとつの、鋭くて奥の深い考え方だと思う。一種の真理であるとも言えそう。
でも、もし本当にそうなのであれば、そもそも文学賞だなんていう格付けが存在する意義もないような。だいいち、世の中にはプロというものがある。
結論から言いたい。まず、上手い下手は、社会やコミュニティによって異なる。そして、ここからが本稿の言いたいことだ。賞に落とされた作品は下手なのかと言えば、その賞の価値基準に即して見れば確かに下手なのだということ。語弊のある言い方をすれば、下手ということにされた。
作り手は、客観的に見れば微々たる違いと思えるような些末なところに、いくらでも誇大な美学を見出し得る。それこそがむしろ楽しみであり、そのような傾向のある人が、その道の専門家になるのだとさえ言えるかもしれない。なので、賞を与えようだなどとする立場にいる者は、まあその人なりに審美の判断に自信があるはずなのだが、その人なりに、その人が人生を賭してようやく手に入れられるほどには巨大で深遠な着眼点を、まぁご苦労なことにどっさりと持ち出して応募作品を審美することになるのだ。つまり、そこには、肥えた価値尺度が存在する。そこには、そこならではの、上手い下手の確固たる基準があり、技術というものはそこでは既に存在してしまっている。
(今回のこの文章、センスが特に良くない?)
その意味で、落選した作品は、確かに下手なのだ。しかしそれは、その賞の価値基準に沿って見た場合、というに過ぎない。
上手い下手は、賞の数だけ存在するし、専門家の数だけ存在するし、単に観客の数だけ存在するとも言える。上手い下手は存在しないのではなく、むしろ逆で、上手い下手を見出そうとする人の数だけ存在する。そして、その審美者の経験と熱量によっては、その上手い下手の基準は、いくらでも深遠に、気難しく、戒律的に、理想主義的に、夢見がちに、高慢に、自己陶酔的に、自己中心的に、不寛容に、そして怠慢になり得てしまう。このことは、新世代にとって常に落とし穴として機能する。
ピカソの絵を見て、あれを良いと思わなかったにも関わらず、そのことを口にせず、それを主張しなかった人についてどう思うか?あれを良いと思う人もいるらしいから、そこにあえて水を差さなかったのだろうか。そう言えば聞こえはいいが。他人が良いと言うのだから、「自分にはわからないが、きっと良いに違いない」そう考えた結果なのではないか?もし、そうなのだとしたら、それは自分で判断せずに、他人の判断に任せていると言える。
そのような人は、権力者である審美者が自らの怠慢によって、それまでに見たこともなかったような種類の価値の在り方を突きつけられても、それをそれと見抜けない、つまり価値を見抜けなかったとしても、そのようなピカソに沈黙してしまう人は、審美者のその振る舞いに甘んじなければいけない。満足しきった権力者が、自身が身を置く習慣と価値観の流れに安住し、新しいものを認識する手間を省いたこと(権力者にとっては、そもそもその必要がない)を、受け入れなければいけない。なぜなら、他人の価値基準を前に、自分の価値基準の主張を遠慮したからである。
自らの中に価値基準を持つ人だけが、いや、自らの中にある感覚を価値の基準として主張して良いことに気がついた人だけが、他人や世の中が掲げる価値基準にひれ伏すことなく、それと渡り合うことができる。
そういう人だけが、本質的に、他人を無視して生きることができるのだ。
それこそが、芸術家に求められる資質である。
価値の基準は人それぞれだとか、基準は無数にあるとだけ言って終わるのであれば、それは安易な相対主義だ。それは極論であり、その意味で、非現実的な、うわついた理想論にすぎない。
現実には、その社会において支配的な基準というものがあり、あるいは、もっと直接的に、価値基準を下す支配者だとか権力といったものが存在する。芥川賞だとか、そういった、由緒や後ろ盾のあるものが権力であり、支配者と言える。文学や芸術は、音楽や漫画のように(?)、純粋にヒットするかどうかで成り立てず、閉鎖的なコミュニティの中で認められるかどうかの世界だから。観客は、次のピカソが指名されるのを、ただ指を加えて眺めて待っているだけだ。観客は誰もなにも判断しない。
僕が言いたかった、気づいた点とは、次のことだ。文学で上手くなりたいだとか、受賞したいだとかいう考えを、なんとなく抽象的に抱いているのであれば、それは十中八九、その人自身の中にある創作意欲とは別の、その人の外にある他人の価値基準に翻弄されることになる、ということだ。
上手くなることを、あまり深く考えずに捉えるのであれば、その社会においてだいたい主流といえるものの在り方や習慣における、「その中でいうところの上手さ」を、基本的には踏襲することになるだろう。その人は、自分がなにをやりたいかを二の次にし、どうすれば他人に認められるかを最重要事項とし、他人に認められるために自分をどこまでも変えていくという行動を取ることになるのだ。その先にあるものが受賞である。
その人が欲しかったのは、権力に他ならない。その人が追求したのは、自分の美学ではなく、他人の美学であった。その人は芸術家ではなく、商人である。
揶揄を込めて書いてしまったが、芸術家とは不器用な生き方であって、より広い観点から見れば、権力はあった方が良いに決まっている。その意味では、権力欲とそのための努力を否定はできない。
現に、僕は、自分の作品や文章のなにがわるいのだろう、なにか悪いところがあるか、今後はどう変えていけばいいか、と、そんなふうに殊勝に考えていた。それが僕のモヤモヤだった。
しかし、それは、上手い下手が抽象的に、あるいは普遍的に存在するかのようなイメージを持っていたせいで生じる問題だったのだ。上手い下手という技術の所在を具体的に見出せないのであれば、それは、世の中の最大勢力の技術に原則として則ることを意味する。そして、その最大勢力の技術、つまり、芥川賞の作品だとか、有名詩誌の掲載詩だとか、そういったものを、僕は微塵も良いと思わないという個人的な感覚が、前提として存在した。このギャップこそがモヤモヤであった。
僕は、自分が少しも良いと思わない作品を作る人や団体に、評価してもらおうだとか思っていたのだ。合理的に考えれば、無理がある。
評価を取り付けるために、自分の書くものを変えようと試みることが何度もあった。しかし、だいたいの場合において、いつも、自分が書きたいものと違うものを書かされるハメになる、そういう感覚にぶち当たるのだった。
僕はずっと「自分はまだまだだ」「どうすればもっと上手くなれるんだろう?」と考えていた。
頭が悪かった。
僕は、創作意欲と権力欲をはっきり区別しなければならない。そして、それができれば、問題の根本は解決したようなものだ。
自分の嗜好と相談して、その二つがうまくバランスを取れる道を模索することだ。その二つを混同していては、自分の創作意欲だけを追いかけていながら、評価も欲しいという話になってしまう。自分の嗜好が、既存の主流の価値観からどれくらい乖離しているか、そこを見て、バランス良くやっていくしかないだろう。
他人や世の中にどこまで合わせて、そこの技術を身につけにいくか、だ。それをすればするほど、社会的な地位に近づくだろう。一方で、それを迎合と捉え、自分の価値観を信じてそれを中心に行動するのであれば、その分だけ認められにくくなる。やるなら、それを覚悟の上でやっていくということだ。
つまり、僕が自分の文章や作品を、もっと客観的な価値観に則ったものに変えていくべきかどうかは、全くの自由ということだ。客観仕様でなければ上手くないのか、客観仕様なら上手いのか、それは既に書いた通りだ。ひとつ言えるのは、世の主流な価値観の作品のほとんどを、僕自身は良いと思わないということだ。
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