見出し画像

命の価値 澄んだ差別

 そもそも、命、とはなんだろう。

 ただ漠然と、大事なもの、大切なもの、かけがえのないもの、ひとつしかないもの、などなど、とても抽象的で、命そのものの言葉を表しているとは思えない。

 では、その曖昧模糊な「命」に優劣があるとしたら、それはいったいどういうことであろう。

 それはきっと、明確に、一律に、定められるものではないと思う。

 優劣や価値基準、で物事を考えるときに、完全なる客観での視点は難しく、ほとんどが主観的、というより今置かれている状態や職業、これまでの経験等々、自分にとっての感覚でしか判断できないものだと思う。

 では、命は平等ではないのだろうか。いや、それも違う。

 命、とは、命そのもので考えたとき、それは平等である。人も猫も虫も木も、すべてが動物、植物、であり、突き詰めていくとすべては生き物であり、命である。最終的に、もの、という物質まで還元されていくのだろう(専門的知識がないので、その程度のものですが)。

 どんなものでも、命、という点において平等である。この世に生まれ、生き、死ぬ。そのサイクルの中で燃やされるもの、その点において。

 が、そこに優劣や価値を見出すのは、それはある意味命から外れた、人間による感覚である(もちろん、多くの生き物にとって、自分の命、子の命、種の命、優劣はあるかもしれないが)。

 命に価値を見出す必要があるかは、それは自分で決めること。しかし、それはあくまで自分で完結することであり、他者を巻きこむことは、また別の問題である。

 いなくてもいい、とか、必要ない、とか、それを決めるのは他者ではない。

 自分にとって不要だからといって、相手にとって不要であるとは限らない。逆もまた然り。

 自分がよければそれでいい、その考えでは社会は成り立たない。誰かの要不要を積み重ねて、この世は生まれいくものである。

 生きていく以上、差もあれば、優劣もある。どんなにあがいても、楽を選びたがる気持ちもあるし、嫌なものは見たくない。

 ただ、言葉の持つ魔力、その力を、みくびってはいけないし、侮ってはいけない。言霊……言葉ひとつで争いが生まれることもある。

 言論も思想も、思考も、自由である。自由であるからこそ、己を律し、無闇やたらに行使しない。ある程度の品と教養、何より礼儀は持ち合わせたほうがよいと思う。

 命の話しからされてしまいましたね。……うまくは伝えられませんし、それこそ主観ではありますが。

 澄んだ差別でものを見ていく。

 たとえ、価値がそれぞれであったとしても。私にはその考え方が、本当に大切なことだと、思う。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。