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行きすぎていないだろうか

 何かをしてあげたくなる人、困っている人に反射的に手を伸ばす人、そんな人もいると思う。

 障がい福祉だけではなく、例えば、子どもだったり、ご高齢の方であったり、その他にも様々。何かしらの、そんな場面が、あると思う。

 それが仕事ではなく、プライベートであれば、だいぶ譲ってそれもいいとは…‥私はあまり思わないけれど。

 それが仕事の場合、私はその気持ちが足枷にもなると感じる。

 してあげたくなる気持ちの人は、必要以上にしてあげてしまう傾向にあると思う。

 時と場合によっては、もちろんそれが必要になることもある。けれど、たとえば車椅子の方で、自走ができるのに押してしまったり、自分で伝えられるのに代弁してしまったり、いきすぎた介入は、もはや支援ではない。

 介護職にしても、看護職にしても、そのほかの職種にしても、それぞれの領域もあるし、想いや見えるもの、見ているもの、必要だと感じるものはそれぞれ違う。重なり合うものもあれば、まったく触れ合わないものもあると思う。それをさらに当人にわければ、まったく別物になってしまうこともある。

 たぶん、経験している職場によっても、まったく違ったりするのだろう。把握の概念も、何となく違う様子があって驚くこともある。

 してあげたい、というのは根幹として、支援者側の、こうしたい、という想いであって、本人に寄ってはいないのではないだろうか。本人が思う、こうしたい、は、もしかしたら支援者側の、こうしたい、とはずれているものかもしれない。逆も然り。大事なのは本人の想いではある以上、ベースにするものは自ずと決まってくる。

 場合によって、状況によって、さまざまな疾患等々、本当に種々の理由によって、本人の意思だけではなく、こうしたほうがよい、と伝えたり、導いたりする必要もある。抑制や薬の使用もありうると思う。それはまた、別の話しではあるけれど。

 どちらにしても、我々援助者にできることは、本人の持つ力が発揮できるようサポートをすることだと思う。

 それを忘れて自分の想いだけを通してしまうのは、支援ではなく自己満足だ。

 ただ、それがどこまでにあたるのか、ときおり立ち止まって考えないと、自分もそうしてしまっているときもあるかもしれない。

 自己満足で終わらないように、支援を、ケアを、本人の力を発揮できるように、引き出せるように、していきたいのなら。

 ときには立ち止まったり、振り返ったり、第三者に聞いてみたりする必要もあるのだろう。

 そんなことを忘れてしまわないように、日々の業務に忙殺されて見失わないように、気をつけないと。
  
 そんなことを、感じる。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。