便利になって
珍しく連絡が来たと思ったら、ランチの誘いだった。それも相手側の家である。
私は訝しんだものの、特に断る理由も見つからず、相手の家に向かった。
「いらっしゃい、よく来てくれたわね」
ベルを鳴らして玄関の扉が開くと、満面の笑みを浮かべながらその子は言った。
入って入って、と手招きされるままに、周りをうかがいながら家に入る。扉の閉まる音が、まるで二度と出られない迷宮に入りこんだような、そんな想像を掻き立てた。
「この前久しぶりに駅でばったり会ったじゃない? ついうれしくってね、連絡したの」
その子は私をテーブル席に座らせると、台所のほうに向かう。まだ料理はできあがっていない、というよりは、これから作るような様子であった。
話さずとも、気持ちが上がっているのがわかる。棚から何やらいろんな道具を取り出しては ちらちら こちらを見ているから、表情がよくわかった。
準備ができたのであろうか、
「ねぇ、悪いんだけれど、手伝ってくれないかな?」
まったく悪びれている様子もなく、今度は台所まで手招きされる。警戒心がどことなく収まらずに、ゆっくりと立ち上がると、その子のところまで行く。
台所には私の知らない調理道具がいくつかあった。私がじっとその道具を見ていることに気がついたのか、
「テレビでね、いろんな便利グッズを紹介していて、つい買っちゃったの。ちなみにこれはね……」
と、聞いてもいないことをそれこそ宣伝のようにつらつら話し出す。
「これは、野菜が簡単に輪切りや千切りにできるの……これは袋に入れたまま熱湯に入れられるの……」
まるで自分が開発でもしたかのような口ぶりで、説明にも淀みなく、きっとどこかの受け売りをそのまま話しているのであろう。
説明をしながら見せつけるように実演をし、にやにやしているその子の顔を見て、何となく もやもや していた気持ちが晴れた。いや、晴れたわけではないけれど、なぜ、という疑問は解消された。
手伝って、と言いながら、ほとんどすべての作業を見せつけながらこなし、料理ができあがる。たしかに、早い。
「便利よねぇ」
とりあえず、便利である、ということには同意をし、それ以外は何も言わなかった。
ランチを終え、満足そうなその子の見送りの中、私は帰った。
帰りながら、かの便利グッズを思い出し、私自身はこう考えた。
たしかに、便利だと思う。簡単にもなり、安全にもなり、子どもでも手伝えそうな。
けれど、その結果がもしその子だとしたら、自分の考えなんてまるでなく、考える必要もないその便利さの影に、その力を失うのではないか。
そんなことを、考えた。
便利になり、簡便になり、容易になり、簡単になり、時間だって短縮される。大変、けっこうなことだと思う。
時間のないものにとってはなおさら、きれいごとなんて言ってはいられないし、それでよいのかもしれない。
けれど、なんでだろう。
私には、ある程度の不便も、大変さも、必要なことに思う。その不便さや大変さの中で、どうするか、を考えること。
もちろん、誰だって取捨選択くらいしていると思うし、考え抜いた末の便利な簡易的なものはよいものだと思う。私も、そうやって効率を考えてしまうときだって、ある。
けれど、ノウハウや便利な言葉だけに思考を乗っ取られてしまうのは、どうなのだろう。
便利になるたびに考える力や能力を失う。
そんなくらいなら、私にはやっぱりそんなもの必要ない。それも言い過ぎかもしれないけれど。
少なくとも、私はそんなことを感じる。
私はその子の調理を思い出しながら、今晩は何を作ろうか、と思考を切り替えて、じっくり考えてみた。
いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。