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この世界に私が存在するのは、私の中に世界が存在するから

 目の前で、グラスにスパークリングワインが注がれていく。なみなみと注がれたワインは表面張力で少し浮いて見える。

 私はくちづけをかわすようにそっと唇をグラスにつけて、軽く飲む。炭酸が喉を刺激し、甘い香りが鼻腔をくすぐっては改めて舌ですくいとる。なんとも言えない、至福を感じる。

 パテ・ド・カンパーニュをひと口、そしてワインをひと口。賑やかながらも騒がしくない店内の雰囲気に ひとり 静けさを感じながら、店員の動きを見ているのがまた楽しい。

 月に一度の贅沢。私はここにくるのを楽しみに、がんばっているようなものだ。常連、というほどでもないし、知り合いがいるわけでもない。ただ静かに、ひとりで、こうして飲んでいるのが、私には心地よい。

「お次は何になさいますか?」

 カウンターの向こうから声が聞こえて、視線を向ける。空になったグラスが寂しげな音を鳴らして空気をゆらす。いや、音など何も鳴らず、空気をゆらすこともない。この寂しげな音はなんだろう。私はそれを探す前に、さて次は何を飲もうか、と考えた。

「よければ、こちらがおすすめになりますが、いかがですか?」

 私にとってはであるが、珍しく、おすすめを紹介される。はて、どんなものか。

「こちらは最近入荷したばかりのもので、ちょうど色々な方におすすめしているのですよ」

 と、合点がいく。私は、それなら、と思い、頼んでみる。

 出てきたのは、何やら不可思議な形をした瓶でーー正確には、その形というよりは、形の定まっていないことが不思議なものだった。ふと見ると丸っこい瓶だったのが、あっという間に細長い瓶になる。目の錯覚なのか、はたまた夢幻なのか。それはそれは摩訶不思議な瓶だった。

 私は、どんなワインなのだろう、とわくわくしながら待っていた。

 いよいよ、グラスに、ワインが、注がれていく。

 それは、それはそれは、なんとも形容のしがたいものだった。これまで見たことのないような、ワインなのかどうかも疑わしいものであった。

 グラスに注がれたものは、世界そのものに見えた。風景の一部が切り取られてそこに収まっており、まさしくこのグラスの中にひとつの世界があった。光の反射もあるのだろうか、天地が逆さまになっていて、底のほうだけに目を向ければ深い青が光り輝いて見え、美しい蒼のワインに見えなくもない。

 しかし、それはどこをどう見ても夜明けの空を思わせる。暁が色を灯し、薄明けていく空の目覚めと雲の明暗がコントラストになって、深みを与えている。

 そうして、まるで空から生えているみたいに、木々が影絵のような暗さを持ってぶら下がっている。ワインがゆれると、地面がゆれるようにあやふやになる。

 しかし、それは、たしかに美しいものではあった。おすすめされるのもよくわかる。心にすっと入りこむような、なんとも言えない心地があった。

 私は飽くこともなくそのワインを眺めていた。目を閉じると、鳥の囀りが心地よく胸に響き、朝の冷たい静けさが、私の意識を自然に馴染ませ、凛とした空気に漂う自分を想像させる。

 私は世界にひとりになったような気分になってーーそのとき初めて、世界そのものは孤独を与えるものではなく、世界そのものが私の一部であって、そばには空気も光も時間も闇も何もかも一緒にいることを知覚した。そう、同時に、私も世界の一部であって、初めから、孤独などではなかったのだ。

 私はそれを実感として飲みこむと、寂しげに聞こえた音は、その儚さを持ってそばにいると教えてくれていたのだと、わかった。

 私はいよいよ、実際にワインを飲もうと、瞳を開ける。そこには、深い、深い、蒼のワインが待っている。

 私は、残りのパテ・ド・カンパーニュと共に、この世界をひと口ずつ、私の中に、かえしていった。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。