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生きていくうちに汚れていく

 お気に入りのマグカップの取手が取れた。捨てることにした。

 初めは直そうか、と考えていたけれど、よくよく見ればもうかなり変色し、汚れているのがわかる。

 お気に入りのものだけに、残念な気持ちもあったけれど、仕方がない。

 長年愛用していたものを処分する、というのは、なかなかに気持ちの入るものだった。

 そうして片づけていきながらーーふいに見えた自分の指に、気づくものがある。

 一番、身近で、一番、古く、一番、愛用し、一番、長く一緒にいる。

 それは、まさしく、私だった。

 それも代用も効かず、新しいものを、なんてことも言えない、もの。

 マグカップが十年やそこらでこんなにも汚れてしまっている。それこそ、何十年と一緒にいる私の体なんて、もっと汚れてしまっているのではないか?

 どのくらい、汚れてしまっているのだろう。

 自分の目にも映らないくらい、自分の目では確認もできないけれど。

 どれほど、汚れてしまっているのだろうか。

 体だけではない。

 心は?

 心なんて特に、澄み切ったものなんてーーそもそも、そんなときなんてあったかすらもわからないけれど、もうすさみきって、汚れきって、しまっているのではないか。

 汚いものばかりを、見続けてしまっているのでは、ないか。

 汚いものばかりが溢れ、見続けてしまっているばかりに、体も心もすべて、汚れてしまっているのではないか。

 なぜだろう。そんなことを、思う。

 生きていくうちに、汚れていく。

 生きていくうちに、汚れてしまう。

 きれいなままでなんて、とても生きられない。

 きれいになんて、とても生きられない。

 そんなことはわかっている。

 お気に入りの、お気に入りだったマグカップを片づけ終えて、改めて自分の指を見る。

 こんな汚れた指で、体で、心で、私に何ができるのだろう。私につかめるものはあるのか。たすけになるものはあるのか。

 いつまでも うつくしいこころで いきていたい

 そんなことは、難しいのかしら。甘えなのかしら。

 それがよいことなのかもわからないけれど。

 でも、もしかしたら

 磨くことは、できるかもしれない。

 少しでも、きれいに、生きていけるように。

 磨くことは、できるかもしれない。

 それに、汚れだけではない、うつくしいものだって、あった。

 流されるだけではない、自分の意思を反映させることもできる。

 生きていくうちに汚れていく、のだから。

 私は、ひと息つくと、お気に入りのマグカップとぐるぐる巡っていた思考を一緒に玄関に置いて、大きく伸びを、してみた。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。