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見返りとは、何かが返ってくるだけではなく、自分の行動だけでは満足できない状態であること

 ある人と話しをしていて、感じたこと。

 その人は、愛情というものが100あるなら、そのすべてを捧げたい。でも、それで相手が満足しなかったら、なんの意味もないでしょう? と言った。

 意味のない、愛情。それだと、する意味が、ない、と。

 私は話しを聞いていて、あぁ、この人はきっと、見返りがほしいのだな、と感じた。そして、それを伝えた。

 その人は「見返りなんて求めてない」と返したけれど、私が思う見返りとは、何かが自分に返ってくることではなく(正確には返ってきているのだとは思うけれども)、相手が満足をしたという状態、満足した姿を見る、それ自体が見返りなのだ、とそう伝えた。

 つまり、愛情を注ぐ、という行為に気持ちを向けられず、相手が満足をするか否かというところに気持ちを向けていたのだ。

 それは、でも、考えれば当然のこととも思う。

 人が行動を起こすのは、何か見返り、つまりは相手の笑顔が見たい、とか、相手が満足する姿を見たい、とか、幸せにしたい、とか、楽しい時間を共有したい、とか、そういったものが根底にあるのだと思う。

 私も以前の記事で、自己満足で生きる、笑顔が見たい、癒されたい、そのための労力を惜しまない、など書いたこともある。

 ただ、私とその人で決定的に違うのは、私はたぶん、見返りまでは求めていない、ということであろう。ということに、話しをしていて感じた。

 私は、私の行動は、それ自体に満足しているために、仮にその場で笑顔が見られなくても、何もなくても、それで構わない。

 しかし、その行動をした後の反応、笑顔や満足に目を向けていると、その行動では満たされない。結果、その先がどうであったか、までが必要なのだ。

 相手依存の考えでは、苦しくなるのではないか。自分がどうしたい、で考えなければ、結果を求めてつらくなってしまうのではないか。

 私はそう感じざるを得ない。

 その人は私の話しを聞いて、何を感じたのかまでは、私には計り知れない。

 もちろん、私の考えが正しいわけでもなんでもないので、その考えを聞いた後にどうするか。

 それは、その「人」だけが、知っている。

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