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自分の仕事に美しさと変態性を見出すとき。

ああ、美しいな。

ものづくりを仕事にしていると、そう思う瞬間がふいに訪れることがある。

それは、個展に向けて一点ものの大物を作っているときでも、新しい作品を試しているときでもなく、これまで100個、1000個(もしかしたら10,000個)は作っているであろう、いつも通りのマグカップを挽いているとき、その並んだ姿を見たときなんかにふと訪れる。

一つ挽き終えて、板と粘土の隙間に糸を入れて切り離し、ろくろから板を外して、それをテーブルに乗せるべく振り返る。
その瞬間に、それまで挽いたカップたちが目に入って
「綺麗だな、、」
と呟く。

はい、もちろん私一人です。
独り言です。
土と会話してますよ、陶芸家ですから。

というツッコミは置いておいて。

窓から入る陽射しと、並んだカップの作り出す影と、
そのとき流れていた音楽と、自分の穏やかな心情。

そういうものがぴたっと合わさって
「あ、完璧」
みたいな構図がね、一枚の写真のように、映画のワンシーンのように切り取られることがあるんです。

この感覚、
気合が入った瞬間よりも、何気ない日常の光景のときにこそ不覚にも味わうものだから不思議。

***

小川洋子さんの「博士の愛した数式」という小説で、大好きなシーンがあって。
博士は数学の問題が解け、自分の解答に満足しているようなときに「ああ、静かだ」と呟く。

博士の求める静けさは、外界の音が届かない、心の中に存在していた。
(中略)
正解を得た時に感じるのは、喜びや解放ではなく、静けさなのだった。あるべきものがあるべき場所に納まり、一切手を加えたり、削ったりする余地などなく、昔からずっと変わらずそうであったかのような、そしてこれからも永遠にそうであり続ける確信に満ちた状態。博士はそれを愛していた。

私はね、こういうものづくりをしたいと思っているのです。

美しい、ということは、静かであること。

そのときの自分の内面はとても穏やかで、
繰り返す波の音や、
森の中の雨の音、
夜の川辺での焚き火の音、
そういったものに近いのかもしれない。

まるで第三者の目線で、自分とその状況を見つめているようで。
昨日起きた悲しい出来事や、明日への不安や、焦り、悔しさ、不満、後悔、なーんてものがぜーんぶどうでもよくなる。
(こうして書いてみると悟りを開いたんじゃないかと思うね笑)

私と陶芸との、ちょうど良い距離感。
そんなかんじ。

とはいえ、次の瞬間には
今日中にあと何個!とか
何時からは別の仕事!とかの
オラオラした思考も押し寄せてくるんですけどね。
それはそれで、楽しい現実です。

***

これはものづくりを仕事にしている場合に限った話ではないのかもしれないですね。

複雑に絡む線で描かれた建築の設計図をみて美しいと思う人もいる。
ピタリと揃った決算書の数字と予実の対比を見て美しいと思う人もいる。
これだ!と思うコピーを思いついてデザインとハマった瞬間に美しさを感じる人もいる。


なんというか、その仕事、職種ならではの変態性なのかもしれない。
私は数字に美しさは感じないけれど、同じように泥の造形物に美しさなんて感じない人もいるでしょう。


その仕事の真髄に触れる、というと大袈裟かもしれないけれど、
私はこれが好きで、この仕事に喜びを感じる。
だからこれをやり続ける、と決意したことへの、神様からのちょっとしたご褒美なのかもしれない。


それがあるかないか、が
自分の仕事を愛せるかどうかに直結するのだと思います。

今の仕事って私に向いてるのかな、このまま続けていいのかな、と思ったときは、こういう瞬間があるかどうかと思いを巡らせてみるといいのかもしれません。
一瞬でもそういう場面があれば、それを宝物のように大事にしまって(普段は思い出すことなんてないんだけど)、生きていけると思いますよ。

あ、もちろんね、そんなふうに思えない余裕のない日のほうが圧倒的に多いです笑。
だからこそのご褒美なんだと思います。



読んでいただきありがとうございました! サポートしていただいた資金で美味しいものを食べて制作に励みます。餃子と焼肉とカオマンガイが好きです。