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「俺八分」を超えて 『うしろめたさの人類学』


切断にまみれた時代に生きている。あらゆるものを閉じた世界に生きている。それではなにも変わらないと思う。

『うしろめたさの人類学』
(松村圭一郎、ミシマ社、2017)


自分たちがその手綱を握っていることを意識しながら、一人ひとりの越境行為によって、そこにあらたな意味を付与し、別の可能性を開いていく。それが重要だと思う(p188)

「俺八分」

村八分という言葉がある。「村の規範や秩序を乱す者を排斥・絶交する制裁行為」という意味だが、これに似たような行為をSNSなどインターネット上でよく見るようになった気がする。タイムライン上の不快と感じるもの、自らの秩序を乱すものを攻撃する、あるいは除外しようと働きかける、ブロックなどそのような諸々の仕組みで縁を断つ。

オンライン上では、村のような集団の規模ではなく、個人レベルでそのような“制裁行為”が行使されるようになった。「自らの規範や秩序を乱すもの・こと・人を排斥・絶交する制裁行為」、「俺八分」が可能になっている。

「俺」という言葉を選んだ理由は、父系封建制社会の“父”のような専横さをそこに感じ取ったからであって(その時代の“父”は自分のことを「俺」って言いそうだなと思ったからであって)、ジェンダーとかなんとかを敵対蔑視してのつもりでは一切ないと先んじて補足しておく。

自分の秩序を乱すもの・こと・人を自分の「世界」から除外、もしくは完膚なきまでに叩きのめす。それがいまなら簡単にできてしまう。

切断の時代

SNSは、誰とでも繋がれる接続の装置とされているように見えるけれども、これはむしろ、絶交の装置だと思っている。インターネットは「世界のどこの誰とも繋がっているようで、世界のどこの誰とも繋がっていない」。むしろ、世界のどこの誰でも切断できる仕組みだ。

近頃定着したように思える“コミュニティ”という言葉に猜疑心を抱いてしまいがちなのだけれども、やはりこれも、実は内と外・その他を切り分ける悲しい仕組みに思える。“つながり”、“共感”からは、それ以外が生まれない。閉じた「世界」が生まれるだけで、世界への想像力は失われていく。

そんなものがありふれた切断の時代を生きている。

もちろん切断を全幅で否定していきたいわけではない。ここで言いたいことはそういうことではない。理不尽な暴言をぶつけられるなら、悲痛な事件・事故に関する話題だけが目につくようになってしまうなら、心の安寧を優先して断ち切った方がいい。

「世界」=世界という勘違い

人はあらゆる情報・もの・こととフラットに接続できるかと言えばそうではなく、人は自身の目から見えるそれまでの人生で見聞きしてきたものごとにしか反応できない、情報を拾うことはできない(以前自分はそれを“サイネージ”と表現した)。さらに、それは身の回りのあらゆるサジェスト、レコメンドなどによって加速して狭まっていく。

SNSでは主観を起点に構築されたタイムラインという「世界」しか見られない。しかし、人は自身が構築したその「世界」を世界の全てと勘違いしてしまう。そう勘違いしてしまうのは、インターネット・SNSに抱いてしまう「世界と繋がれる接続の装置」というお題目を信じ過ぎてしまっているからなのだと思う。そして、比較する対象をもたないからそう勘違いしてしまうのだと思う。

全体像の失われた自分好みの切断面だけを見て、居心地のいい「世界」をつくる。タレント・芸能人の政治的発言も可愛くないから切断、思った通りのことを言ってくれないから切断。見たい現実を見ているだけ。そうして視野狭窄に陥る。見るものが失われる毎に、想像力は衰えていく。「世界」の外を信じられなくなる。認められなくなる。

「常識」や「普通」、「当たり前」

「常識」や「普通」は真理だと勘違いされがちだ。これは特定の限定された条件下にだけ適応したものでしかなく、恒久不変にあり続けるもの、あり続けたものではない。何度となく意識しておかないと勘違いしてしまう厄介なものだと思う。

そういったあれこれは、例えば1つの共同体などの中でのコミュニケーションを潤滑にするために、衝突やズレをなくすために生まれる、生み出されるものだ。共通言語や共通概念がないと流石にラグが大き過ぎて困ってしまう、疲れてしまう。潤滑に、ひたすらに潤滑に安定を生み出す。そういう優しさから生まれるもののはずだけども、背景が変われば必ずしも適応できない、むしろ目障りなものになってしまう。

それなのに、人はそれまでが良かったからと言って、背景が変わっても盲信し続ける。「いいものはいい」を信じすぎてしまう。「常識」や「普通」、「社会通念」というものは、齟齬や滞りを解消するために生み出された知恵であるのは確かだ。だからと言って、それを神棚に祀るように大事に大事にただ置いておくだけならば意味はない。

学生時代、拘束の象徴のようだった制服は、かの時代では自由のシンボルだった。想像もつかないようなことだけれども、時代と場所が変わると全く意味も変わってくる。それくらい全く違った見方になるものだ。

そんな問題もこの強烈な切断の時代は個人のスケールで生まれる。同じ国の人同士でも。大メディア、大コンテンツ、大共同幻想はもうない。自分の「世界」に通用している「当たり前」も他者の「世界」の「当たり前」であるとは限らない。それはこれまでのどの時代よりも大きくかけ離れている。「常識」が同じではない、という常識。「当たり前」が当たり前じゃない、という当たり前。今後もっと激しくなると思う。

他者への想像力

お金もそうだが、無意識にも切断に慣れ親しんで生きている。しかもそれに無自覚に生きている。切断の装置にあってその人は、「うしろめたさ」を覚えることさえない。その人の「世界」には、その事実も考え方もなにもかも存在していないからだ。うしろめたいものがないのであれば、うしろめたくなることさえない。

「うしろめたさ」とは、自分の(≒「世界」の)外への、他者への想像力だと思っている。もちろん外への想像力を働かせということはいまの「世界」をブチ壊しかねない不安定な状況になるということだ。すごく怖いことだ。そんな状況は疲れてしまう。よく聞く「自己責任」とかいう言葉は、その想像の放棄からくる言葉だと思う。でもそれは思考停止じゃないかと。

他者への想像力、うしろめたさこそが自分の「世界」を変える力になる。ひいては世の中を変えうる力を持っている。うしろめたくならないのなら、世界は変わることはない、変えることはできない。そう考えている。

自らの「世界」を「世界」と自覚し、世界への想像力を持たないことにはなにも始まらない。他者に対しては他者の「世界」があることを理解し、認めなくてはならない。

エチオピアに行った経験から「うしろめたさ」という言葉を筆者は導き出したが、そこまで大掛かりな体験じゃなくてもいい。すぐそばにいる他者から、ものごとから見出すことからもはじめられることだ。そこからどんなに小さくとも、「世界」の限界を知ることから始めればきっと。

まず、自分の「俺八分」を認識する。そこから順を追って世の中のことを考えればいい。

まず、知らないうちに目を背け、いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚すること。そして、ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること(p174)


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