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ちいさなかしこいゆとりのはなし 『新・ゆとり論 思想でつながり、ゆるく生きる若者たち』

「ぼくが目になろう」。

『新・ゆとり論 思想でつながり、ゆるく生きる若者たち』
すみたたかひろ、2019

「ある程度の判断基準や客観性を少なからず身につけているのも『ゆとり』的だなと感じるのです」(p61)

ゆとりの思想私観

ゆとりの思想には、明確なイデオロギーがあるわけではない。いわゆるの「思想」には明確なイデオロギーがある。中核に共有された幻想がある。その点で言えば、ゆとりの思想にはその幻想にさえも“ゆとり”がある。もやもやとまとまりなく、ひとまず思いつく私観、ゆとりの思想を考えてみたい。

本来「思想」というものには、明確な思想体系、曼荼羅が存在する、あからさまかたちを持ったイデオロギーになる。構成員にそれらは共有され、思考の軸として根底に横たわる。ざっくりそれが、「思想」だと思う。

『新・ゆとり論』において、ゆとりの思想は定義づけられる事なく、のらりくらりとその場面は移ろう。ただ、登場する人々、引用される言葉にはどこか雰囲気の近い感覚がありながらも...、実体を掴みきれないままに、不確かにも「思想」のような存在を感じとってしまう。

ゆとりのそれを「思想」というには、どこか心もとない。それでいて、それなのに、1つの思想のようなものを感じられるのはなぜか。

それは、ぼんやりと離散して独立した個が、ムラ、ブレ、あそびを含んでいながらも曖昧に接続していて、一見1つのイデオロギーのような様相をなしているから、だと思っている。粗く遠巻きに見ると1つのイデオロギーのようで、解像度高めて仔細眺めると1つというにはまとまりのない群像。事後的に「思想」があるように見えてくる。

いわゆるの「思想」は、貫通した主義=縦糸をもとに織りなす織布と言うこともできるだろし、それで言うならば、ゆとりの思想は、それぞれは明確な依り代を持つわけでもなく絡まり合ったフェルトのようだとも言える、かもしれない。「思想」は固体のような質量をもって構築されるが、ゆとりの思想は霧散している。そんなイメージを抱く。

ないものづくし時代

バブル後の経済成長なき時代、オウム後の宗教なき時代、3.11後あるいは昨今の国家なき時代、インターネット後のリアルなき時代…(ないとは言っていない)。平成とはないものづくし時代だった。

通底して通底していない時代、「共同幻想なんてないんだ」をある意味で1つの幻想に、“イズム”なきイズムを織りなしている/しまっているこのまどろみのことをゆとりと言うんだと思う。

とかなんて勝手に解釈してみたものの、実態どういうものかわからない。まだ少し、思いの通りに書いてみる。

過去やはり明確な集団が形成されてきた。共通の信念、共通の未来を抱いて、その絶対のもと。対して、ゆとりの思想は共通して、共通していない。絶対がないことが絶対。ないない時代は世代を超えて絶対がない。だから、世代論の括りを超えているのだと思う。

明確なつながりのない場面、人は不安に駆られて怖気付く。怖くてたまらない。自分が一人という事実に耐えられない。過去の諸集団はみんなが同じである事を確認せずとも前提として置いているから、怖くない。自分は一人じゃない。だからこそ、(集団間の齟齬があるにせよ、)強くいられる。

対して、ゆとりの人々。共通して共通していないだけでしかなく、つながりは脆弱だ。咄嗟の場面ですぐさま孤独に陥りかねない。そうなると弱い。だから、どの時代の人々よりも意識的に、「共感」を標語にするんだと思う。どうだろうか。LINEのスタンプのような「エモい」は、その車間距離的なものが不安になった小さい個の点滅信号のようなものだと思っている。

スイミー

なんにせよこの本を読んで思い描いたのは、スイミー。仲間から逸れひとり(1匹?)さまよう黒いスイミーが、孤独の中で己の価値を見出し、自分と同じようで同じではない赤い仲間と連関して生きていく。あの物語。

1つの「思想」のように見えるのも、無力さを思い知るのも。逃げの果てにゆるくつながっているのも。いろいろ、うんと考えてたどりつくのも。スイミーを思い出した。

物語ではわかりやすく主人公スイミーは黒、他は赤。だけれども、実際はそれぞれ違う色かたちで、それこそフラッグを掲げグラデーションをなした虹色になるんだと思う。

自分が黒いから。世界を見て回ったかしこいスイミーはその一点、自らを見出した。だからみんなの目になった。目になれた。ゆとりの人々とどこか重なる。矮小化するわけでなく、スイミーを感じる。

ところで、スイミーのサブタイトル、「ちいさなかしこいさかなのはなし」なんですね。知らなかった。まさしく、ゆとりの人々だなぁ。なんておもいつつ。『スイミー ちいさなかしこいさかなのはなし』(レオ・レオニ、谷川俊太郎 訳、好学社、〈1963〉1969)、いい話ですよね。


唐突な一節のエロさ

さて、最後話変わって、少しだけ。以前、角田さんにお世話になっていたこともあり、発売前にカフェで完成品を見せてもらうことがあった。その時に聞いた種明かし。読む前にされたネタバラシを、腹いせにまだ読んでいないかもしれない人に撒き散らしておく。

冒頭の言葉、書籍のはじめの1ページ。『夜明け前』(島崎藤村、1900)からの引用がある。

そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。

哲学書やなんにでもこういうのはよくある。これが意味するのはなにか。

こういう一節はたいてい、いまから読むその本を貫通する思想の巧妙なネタバレになっている。『新・ゆとり論』は、「ゆとりの思想」は、それを書こうと思った角田さんは、つまるところは、この一節に収束していると言ってしまっていいほどに。

ふと、人生で受けた巧妙なネタバレ。『君の名は。』(新海誠、コミック・ウェーブ・フィルム、2016)を初めて見に行った時の話を急に思い出す。一緒に見に行ったうちの一人はそれで3回目。それでも毎回泣いてしまうらしい。RADWIMPSの楽曲が何曲か使われているらしい程度の知識で、最近見た時は何曲目で泣いた?なんて適当な質問を投げてみたら、1曲目と答えた。わかんないけどたぶん早すぎるだろ!なんてまた適当に返して、映画が始まった。

いざ始まって、冒頭OPで早速RADが流れたじゃないか。これのことか!?いや、早すぎる。これ抜いて次の曲のことか?いやまず、これだとしたらなんで泣いた?なんて思いを巡らせながら、流れる断片的で意味深な描写の数々で気づく。これストーリーのあらすじだろ。前回見たときの全体をこれ見て思い出して1曲目で泣いただろこいつ。本来意味深なOPが、ありありとストーリーを語り始めた。断片的とはいえぼんやり物語の筋見えたぞ。おい。見終わるまでOPの映像との答え合わせのような見方になってしまった。

最初は、それ自体のことも、物語全体のあらましもわからない。ただ、ぼんやりと見流す。意識の内側でも外側でもないところに流れる。『君の名は。』のOP!

唐突に現れるその一節が、どんな意味を持っているのか。読者は知らない。薄々感づきはすれど、あからさまにはならず、秘めたるものが秘められたままそこにあるその事実。エロい。ある事実があり続け、それでも気づかれることなくそのままにあり続けること。エロい。

読み返してようやくに、その真意に近づく。暴ける。主体的にその意味を読み取ることになる。これが残りの10%に委ねられたゆとりだと、思う。

この本では、ゆとりの感覚さえも示すためにか、断言も、定義づけもせず、その体を表すように淡々といまを綴っている。傲りのない態度。長い付き合いではないけれども、角田さんらしさが香る。構成からしてエロいなぁと。

せっかくだし

ふと書いているうちに、そういえばとスイミーを思い出し、なんとなくそれに寄せるように感想文というか、私観を長々と。

せっかく描けと言われたような表紙をしているので、最後に。色ペンが手元にないもんだから色はこうだし、クオリティこうだしで、ひとまず。


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