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限界ルネサンスに限界ファッションの夢を見る 『限界芸術論』

「限界」。ここから「限界ファッション」について思いを馳せてみる。現状、オチはない。

『限界芸術論』
鶴見俊輔、ちくま学芸文庫、[1967]1999

「修羅」とは、各個人の中にある外面化されていない分身であって、これが各個人を底のほうからつきうごかして彼を現状に満足させず、彼をして、未来への彼なりのヴィジョンを投影させる(p77)

「際」

『限界芸術論』の「限界芸術」、「限界」という概念・考え方から飛躍して、個人的な興味関心に引きつけて「限界ファッション」について考えてみたい。そのまえにぐだぐだと。

初めて読んだのはたぶん2年近く前。この限界という言葉を見て、恩師・南後先生の編著本『建築の際 東京大学情報学環連続シンポジウムの記録』(監修 吉見俊哉、編 南後由和、平凡社、2015)で書かれていた「際」の解説が浮かんできた覚えがある。吉見さんと先生の「際」に関する論考から、思い出すためにもいくつか引用する。

「際」とは「極み」であると同時に「境」であり、さらに「間際」でもある(『建築の際』、p16)

「際」という日本語は、多義性をもっている。英語に訳すと、border(境界)、edge(端・鋭さ)、frontier(先端)、limit(限界)、verge(縁・へり)などの語義を内包している。「際」の意味を大別すると-「間」と同様、「際」も空間と時間が不可分な状態を指すが-空間的文脈と時間的文脈に沿って解釈することができる(『建築の際』、p21)

際からの思考とは、さしあたり、それら複数の線を縫い合わせたり、絡み合った線を編み替えながら新たな結びつきを生み出していく作業だといえる。いくつかの領域を結び合わせ、ときに環を形づくる=新たな領域を実験的に立ち上げる作業といってもいい(『建築の際』、p32)

絡み合いの領域を「漂流」しつづけるなかで動態的に浮かび上がってくるのが「際」にほかならない(『建築の際』、p34)

際をめぐっては互いに異質なものが接合し、異種交配を起こしながら新たな線やまとまりが生み出される。際からの思考は、収斂と拡散を繰り返し、試行と移行し続けることによって可能となる(『建築の際』、p34)

こちらでは限界はlimitとして出てきてしまったが、本著においての限界はMarginalを指している。日本語で言えば、周縁・辺境・傍・ギリギリ・空白などか。なんにせよ、「際」と似た領域を指す言葉、個人的には同義語のように考えている。

交雑、越境、先鋭、極限の可能性を最も秘めた領域、限界。その紙一重、揺らぎうつろいの隨に起ち上がるものにこそあいも変わらず惹かれてしまう。(→下記リンク、先日書いた文章の中でもそれについて少し)それがそれ自体だけで存在できない儚さそれ故のその強さに無限の可能性があると信じている。

主題である限界芸術の定義について本著では、「両者(秋吉注 : 純粋芸術と大衆芸術)よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品」(p14)と書かれている。言ってしまえば、「それ以外全部」ということかと思う。周縁の方が広いって、一体どんな中心だよと思ってしまわないこともないが、これについては少し愚痴りたい。(メモ程度のことなので、一本の話にならない。最悪次の項目「中心と限界」は飛ばして読んでほしいです。)

中心と限界

芸術について門外漢ながら、(だからこその誤読から、)限界芸術、アウトサイダー・アートも含めてこの言葉に思うことを少々。改めて、アウトサイダー・アートと限界芸術の類似性だとかなんとかには深く触れるつもりはない。ここから言いたいことがある。中心と限界の関係について踏まえて、もう少し考えてみたい。

限界芸術やアウトサイダー・アートという言葉自体、芸術には中心地があってその縁っぺり=限界に生まれたものですとまさしく指している。だけれども、この芸術の中心がさも存在するかのような言葉はどうなんだろうか?

言葉の綾にせよ、揶揄した表現にせよ、この表記は引っかかる。無意識にも本著で言うところの純粋芸術などを中心に据えた曼荼羅が頭に浮かぶ。この物言いからお芸術からの上から目線がどうしてもちらつく。「中心」があるとそれを軸に位階が生まれるだろうよ。これはやっかみかもしれない。本著内に出てきた芸術の定義を引用する。

芸術とは、主体となる個人あるいは集団にとって、それをとりまく日常的状況をより深く美しいものにむかって変革するという行為である(p52)

宮沢賢治から語る鶴見のこの芸術への定義付けは概ね納得している。芸術とは「創造者を中心にした世界から考えなおす行為・かえる行為」のことだといまのうちは考えている。そうならば、専門家のそれと非専門家のそれを中心と周縁の格好で配置していいのだろうか。世界には中心がないのに、芸術にはあるんですかと。創造者・その作品という中心以外に中心はあるべきでない。自分の外に中心があるから厄介事が生まれる。あらゆる尺度・中心が外にあるから面倒なんだ。そう考えている。

限界芸術も純粋芸術と大衆芸術と同程度に価値あるものでなくてはならないはず。発展系として純粋/大衆芸術があるのではなく、並置してあるべきだ。考え方としての限界芸術という概念であるとしても、ある意味で暴力的だと思う。お芸術発展のダシに使おうとする魂胆が見え隠れして癪だ。

人間、字が表す通りに狭間にある存在ないし狭間自体の存在のことを人間だと解釈している。それが生み出すものも同様に全て限界だ。逆に限界ではない純粋な作品、人間なんていてたまるものか、と思う。こと芸術というもののなかで中心があっていいわけがない。芸術にこそ中心を認めてはいけない。創造者が専門だろうと非専門だろうと関係があるわけがない。

限界という言葉自体は好きだ。しかし、並びに純粋だとかが出てくると違う。相対表現としての言葉になってしまう。絶対としての限界こそ素晴らしい…だとかなんとか、まだまとまりきらないが、ひとまず。こういう言葉遣いが嫌いだとだけ言っておきたい。ここでまた先生の「際」の論考からメモとして。

価値の相対化によって中心が融解すると、周縁からの仕掛けが機能不全になり、挑発性も失われていく。周縁はあくまで中心があってのカウンターとして機能する(『建築の際』、p30)

またここから考えていきたい。話を戻す。

限界ルネサンス

大脱線。ここから特に考えてみたいことについて改めて。少し話を広げてベタな話、シェアエコしかり、クラファンしかり、メルカリしかり、YouTuberしかり、各方々の限界が賑わっている。あらゆる分野のあらゆるモノゴトが、非専門家間でやりとりされはじめている現在、まさしく限界ルネサンス期と言っていいかと思う。

同人誌、巻末投稿、テキストサイト、ブロガー、ニコ動…らへんからじわじわ育ってきたカルチャーがいよいよ可視化されはじめた。インターネットがとか言うのも言うまでもなくいまさらだし、そもそも『限界芸術論』と近年のCtoCサービス等々を絡めて話すのもいまさらすぎて、やたらこっぱずかしい。ひとまず、事実として、限界〇〇が増えきている。(それは、アルビン・トフラーが言うところの生産消費者=プロシューマー、その活動に近い。)

専門分化激しいこのご時世、過去のどの時代よりもかえって非専門の創造力が存在感を増している。ここから強引に自分の興味関心へと引きつけてみたい。ファッションについて。この限界ルネサンスに、なぜ「限界ファッション」は登場しないのか。実現可能性は随分高まっているはずじゃないか。

限界ファッションを考える

いま、あらゆるモノゴトの限界が賑わっているのだから、服・ファッションの領域でもそういうことが起こってもいいじゃないか。そう考えている。限界芸術がくらしと芸術の間に生まれるのであれば、くらしそのものと言っていい服という領域で、限界から生まれるものがほとんどないというのは一体どういうことなんだろう。

雑器をよく見るということ、雑器をよく用いるということは、よい雑器をつくるということへのはたらきかけを当然にふくむこととなる(p44)

柳宗悦について触れた章からの引用になるが、もう、服に関して、よく見てるし、よく用いているはずじゃないだろうか現代人。享受の方法・使用者の振る舞いに関しては、ファッションは最も発展した領域のように思える。それでも、直接的な生産という方向にはどうも行かない。

広義で着こなしも生産=つくると言うこともできるだろうが、ファッションに関してはモノとしての服、それを着るという状況=コト(?)が分かち難く結びついている現象としてある。それで言えば、全幅の意味で生産しているとは言い難い。

ファッション=服(モノ)×着る(コト)  ?(要検討)

純粋/大衆/限界をファッションに当て込めて捉え直してみたい。無理やりにでなく、ひとまず当てはめることは理解を助ける大事なフローのはず。これを手がかりに考えてみたい。

仮に、純粋ファッションとはなにか。パリコレなどのランウェイを飾るラグジュアリー、もしくはオートクチュールなどのことなどかと思う。専門的デザイナーによる服とそれに見合うお客様たち、純粋ファッション。

仮に、大衆ファッションとはなにか。憧れブランドからファストまで含め、市場に流通する服のことかと思う。というか現代の服のほとんどがこの領域のモノを指してしまうようだけれど!ひとまず、専門的デザイナーによる服とあらゆる生活者たち、大衆ファッション。(お金を払えばいくらでもという意味で、純粋ファッションと明確に区分できないが、ひとまず価格帯の違い程度の弱々しい線で分けておく。)

では仮に、限界ファッションとはなにか。非専門的デザイナーによる服とあらゆる生活者たち、限界ファッション。…現状当てはまるものが思い浮かばない。いまそんな服は、ファッションはあるのだろうか。見落としているとは思うけれども、あまり見当たらない。

思っていることとして、ファッションには現状明確に自分の外に中心があると考えている。明らかに尺度として存在している。モノの良し悪し、着こなしの良し悪し。指標はまず自分にあるのではなく、絶対のような指標。それを基に判断するように強制する力が根強くある。(先で純粋やらの言葉遣いに相対だなんだといちゃもんつけたくせに、あえてそのままに使っているのは、ファッションの現状を揶揄する気持ちを多分に含んでのこと。)

人と器と、そこには主従の契りがある。器は仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである(p41)

限界ファッションは可能か?

純粋/大衆/限界芸術の構図で、純粋/大衆/限界ファッションを見てみるとどうなるか。

芸術の場合、純粋/大衆芸術が発展するための母体・苗床として限界芸術が存在するらしい。原風景としての限界経験。落書き、鼻歌。一方、ファッションにおいてはどうか。どうも、モノとしての服に対しての限界芸術的経験なしに、純粋/大衆ファッションの傘下に置かれてしまうように思える。ファッションにおける限界経験は、着るという行為だけが残されているのみで、しかもそれは純粋/大衆ファッションを享受した先にあるものでしかなく、服そのモノ自体に対しての関与・回路は全く閉じられている。

純粋/大衆ファッションを前提とした地平しか開かれていない現在では、そもそも限界の存在自体は一部の興味を持った人間にしか見えてこない(それさえも純粋/大衆の作り手になることの途中段階程度の認識)。この純粋/大衆が前提として存在してしまうことが、判断を強制する力の原因になっている気がしている。(モノへの関与を認められないという限定が、かえって着ることのバリエーションを豊かにしているという風にも考えられる。)

いかに自分=限界を起点にファッションを生み出すことができるのか。戦後しばらくまで、日本には自らの服を自らでつくる洋裁文化時代があったらしい(『洋裁文化と日本のファッション』(井上 雅人、青弓社、2017))。モノとしての服の回路は開かれていた。むしろ促進されていたほど。というか、既製服が一般・常識ヅラしてまだ半世紀ほどしか経っていない。

別にみんなミシンたたけってわけではないし、そんな単純な落とし所を見たいわけじゃない。道具もあれもこれも足りないし、あったところでニッチ。ありものの方が便利なのはよくよくわかっている。違うそういう話をしたいわけじゃない。そもそも洋裁文化時代も自分自身でつくっているには違いないけれども、各々の独創性がだとかの方向には振れず、皆一様に流行の服をつくっていたらしい。それはそうだとして、洋装への教化過程の現象だったからとも見られるわけで、メディアも婦人雑誌だとかだけで情報源の数もいまと違うわけで…だとかなんとか、考えなおすことはまた改めてのときにしたい。

だからなんだというわけではないし、ないことがいけないことで、あることがいいことだなんて雑なことを考えているわけでもない。説明がつかない整理のつかない感覚なのだが、個人的には限界ファッションがあったほうが面白い、と思っている。その人の思想がそのままかたちをもってその人の身を包む、なんて面白いじゃないかと。もっとこの感覚について自分なりに、なんでどうしてを掘り下げないといけないのだけれども、自分のこととなるとどうも掘り進められない。でも理由はないわけではないと思うし、人に理解されないものでもないと、思う。いかにその実現を可能にできるのか、ない頭で考えていかないといけない。「修羅」。(読み返してそもそもいまさらに、限界ファッションという言葉が指している意味・定義が、本文中ブレている気がする。脳みその弱さ。)

思想の具体化、それぞれ一回かぎりの生活状況における思想の適用は、創造である(p440)

とにかく、非専門の野生のデザイナー≒野生のユーザーといった存在があってもいいじゃないか。限界ファッションは可能か?どこまでもそんなことを夢想していきたい。

今日はここまで、一旦セーブ

まだまだいくらでも続けたくなるが、またの機会に。一旦セーブして寝かす。

最初に決めたはずの日を跨がないという自分ルールをいつの間にやら自分で踏み潰していた。Instagramの毎日投稿やnoteもはじめて1ヶ月しか経っていないというのが驚きだけれども、1日1本分、溜まろうがなんだろうがあげる、考えることは続けていきたい。

自分の書評(これは書評ではないかもしれないがひとまず)について最後一つ。自分はその本について書くことよりも(そもそもそんなことその本を読めばいいだろと思う。)そこから自分で何を考えたのか、それを改めて言葉にしてまとめておきたいという考えのもとに書いている。雑多に散らばった脳みその中身を自分なりに線にして点にして、自分中心にモノゴトの分別をつけていきたい。その手がかりとして本を使って、といまは考えている。

考えるということは、別に毎回気の利いたオチをつけるわけではないということでもある。noteだからといって、毎回教訓を残さないといけないわけでもないだろう。長文になろうが、グダろうが、論理矛盾が生まれようが、道程の出来事でしかないと自分では考えている。もちろん、オチを極力つけようとする。限界ファッションは自分の中でなによりも惹かれるテーマなので、このまままだまだ続けられるが、一旦セーブさせて寝かすこともきっと大事なはず。また改めて考えなおすときにまた。


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